あたまのなかをトントンする

Twitterで呟くなり絵や文を投下するなりして、それに返ってくる他者からの反応を“対価”だと無意識に信じ込んでいるふしがある。
あるというかいつのまにか刷り込まれている。
そんな強迫観念は捨ててSNSなんか好きにやれという言説もたくさん見てきて、頭では分かったつもりでもやっぱり直ぐに反応が貰える快感には変えがたい。だから思いつきで中途半端なものを作っては投げ、作っては投げ。
たとえ中途半端でも習慣化して続けばいいけど、私はそういかない。

飽きていく。
好きでやっていたはずのアレコレが次々味気なくなっていくのは、自分の意思でやってるアルバイトが辛くなってくるのと同じじゃないか。
「じゃないか」とはこれもまた中途半端だ。呼びかけているんだか言い聞かせているんだか定めないように書こうとしているあたり腹立たしい。

飽きていく、と表現したのは実は、とある汚い感情を覆い隠すためだ。
正確には、もう他人の才能に殴られるのが怖い。私より上手い文章書きやがって。私より深い考察しやがって。私より謙虚な姿勢とりやがって。私よりおもしろいツイートしやがって。私より悩みやがって。 小物すぎて笑っちゃうな。

特定の誰かを指しているのでは決してない。私が羨み、追いかけ、恐れているのは「Twitterのひとたち」という漠然とした、しかしゾーニングは恣意的にしっかりおこなっている創作者一般だ。
実生活が曖昧だから、こうして仮想敵を作ることでバーチャルな怒りを生み出し、生きている実感をなんとか繋ぎ止めようとしている。
うわーキモい、キモいな。ほんとうに。

そのバーチャルな怒りを燃料にしてなにかがうみ出せれば良いんだけれど、私の場合そちらに舵が切れない。いや違います、昔は、昔っつっても21年しか生きてないんですけど、ちょっと前は出来たんですよ。
これはおかしい、と感じる物事にアンテナを張って、思考を組み立てて、なんとか形にしていた。今でもその産物たちを見返して恍惚の表情を浮かべていたりする。ほぼ思い出オナニーです。

でも今は、こうやってぐるぐる思考が巡るだけで、Twitterにも逐次的な感想をぽんぽんと吐き出すだけで、まとまった何かを頭の中で組み立てられなくなっている。生産ラインのコンベアーが逆回転する緊急ボタンを、繰り返し繰り返し押している。

それでも、対価は欲しい。中途半端な産物に「らくがきです」「妄想。」とかなんとか体裁を取り繕うひとことを添えて気安く世に出してしまう。その日暮らしその日暮らしで、7人くらいにいいねを貰えたらいいな、あのフォロワーならRTしてくれるよな、という精神で。

いつか、コンベアーがボロボロに摩耗して、ぷっつりと思考が途切れる日が来る気がする。地元で毎日目にした、錆びて穴の空いたトタン屋根の廃工場。あんな感じになっていくのではないかと思う。やだな。世間的にみっともないし、はやく取り壊してくれと誰もが思っていたあの危うい建物。
この世から消えるなら、一瞬で無機物になりたい。わけわからん液体や半固体になるくらいなら、死んだ瞬間にプラスチックとか発泡スチロールにぽこ!と変身して静かに床に転がっていたい。廃棄も楽だ。大家が「あーあ」みたいな顔をしながら、決まった曜日に出してくれればいい。

対価をSNSに求めすぎかもしれない。というか、そもそも対価を求めすぎかもしれない。この文章のように、逆張りとかやさぐれのポーズに安住しようとしてるのかもしれない。軸は定まらないが、書いているうちに良くないことは少しずつ見えてきた。
たまに更新するnoteの内容がこんなだらしない人間の思考整理でいいのか。ここは先人の助言通り、SNSを好きに使ったということで。