他人の評価が気にならない!自分軸の作り方
こんにちは。
身長193cmマーケターの川畑です。
個人でビジネスをやっていく上で、他人の評価を気にしないメンタルはとても大切です。
少し前ですが、川畑がアップしたブログ記事に
というふうコメントをされましたw
当然川畑は、これまで自分自身が書いた文章でも、川畑が添削したクライアントさんの文章でも、たくさん売上を作ってきたので、
「なにコイツ😕」
と思い、コメントも削除して、そのアカウントをブロックしました笑
個人でビジネスをしていると、批判されたり、否定されたりといったことが、まぁまぁ起こります。
きっとこれを読んでいるあなたも、
「そういえば過去にあんなことを言われたなぁ…😕」
と、思い当たる記憶もあるかもしれませんね。
きっと昔の僕が、先ほど挙げたような批判コメントを受けたら、すごく傷ついていたと思います。
でも、今の僕は「うるさいなぁ」と思う程度で、あまり気にしなくなりました。
つまり、他人の評価があまり気にならなくなったんですね。
なぜ、他人の評価を気にしない状態になれたのか?
実は、エーリッヒ・フロム著の『愛するということ』という名著に書かれていた“ある一文”が、僕の価値観を大きく変えてくれました。
では、その一文とは何だったのか?
引用しますね。
この一文だけ読んでも、「はにゃ?なんのことですか?」って感じですよねw
それはそのはず。
この一文に至るまで、この本の中で母親像と父親像について、それぞれキチンと定義づけをされてましたから。
その定義を知った上でこの一文を読まないと、このエーリッヒ・フロム氏が言いたい事を理解するのは、とても難しいと思います。
では、エーリッヒ・フロム氏が語る、母親像、父親像とは一体なんなのか?
端的に説明した箇所だけ、引用して解説しますね。
母親愛とは何か?
最近よく、心理学系や自己啓発系などで
「あなたは、存在するだけで価値があるんだよ。」
というような言葉を耳にすることがありますよね。
この、その存在をまるごと承認するような愛を、母親の愛だと、エーリッヒ・フロム氏は定義づけたんですね。
父親愛とは何か?
母親は、ただ存在するだけで愛してくれるのに対し、
父親は、道徳に則った行動、社会のルールに沿った行いをしていないと、愛を与えてくれないわけです。
分かりやすく例えると、もしお店で万引きをしたら、当然お父さんにブチ切れられますよね。
しかし、バスケの試合で活躍したとか、テストで良い点数を取ったとか、何か1つのことを頑張ったり、良いことをした時は、父親は褒めてくれます。
つまり、悪いことをしたら愛されないし、良いことをしたら愛される、ということなのです。
この条件付きの愛を、エーリッヒ・フロム氏は「父親の愛」だと定義したのです。
他人の評価が気にならない精神の作り方
さて。
それでは今日の本題『他人の評価が気にならないメンタル』をどのようにして作り上げれば良いのか?
この話に戻りましょう。
先ほどの、エーリッヒ・フロムの結論を、もう一度読み返してみてください。
つまり、自分の中に、自身に対する母親的な無条件の愛と、父親的な規律正しい愛を、両方宿していく、ということなのです。
まだ言葉が難しいので、もう少し噛み砕いて説明しますね。
母親的な愛を自分に宿している状態とは、自分自身に対して「私は生きてるだけで素晴らしい」「生きてていいんだ」と、心から認めてあげることができている状態だと、僕は考えています。
実は高校生の頃の川畑って、「どうせ俺なんて…。」が口グセだったんですよねw
自分自身の存在に対して、価値がないと思っていました。
だから自分の意見なんて1ミリも言えなかったし、相手から何か言われたら、全て相手の意見が正しいと思い、自分の意見を引っ込めてしまうという性格だったのです。
しかし今では、自分はちゃんと周りの役に立ってるし、周りが必要としてくれているんだと分かったので、自分の存在を自分で認められるようになりました。
自分で自分の存在を認められるようになること。
ここが、とっても大事なポイントです。
次に、父親の愛を自分に宿すことについて。
これは、自分の行動や考えが、良い事なのか、悪い事なのか、その判断基準を自分自身で決め、そしてそれを守るという事です。
良い行いか、悪い行いか。
社会や他人は、この基準をいっぱい押し付けてきます。
例えば、法律によって、信号無視はダメだと決められていますよね。
なんと、歩行者の信号無視は、最大2万円の罰金もしくは科料に処させる可能性があるそうです。
でも僕は、赤信号で進むことを、時と場合によっては善の行動だと思っています。
例えばこんなふうに、押しボタン式の信号機付きの歩行者専用の横断歩道ってありますよね。
僕の家のすぐ近くにも、このタイプの横断歩道があります。
川畑1人しか横断歩道を通らない。しかも車は全く見当たらず、明らかに安全という場合は、押しボタンを押さず、赤信号のまま渡るのです。
なぜなら、誰も歩行者が通らないのに、赤信号のままにしていたら、車側からすると意味もなく待たされる時間が発生してしまいますよね。
車側の気持ちを考えたら、安全だと自己判断できる時には、そう判断しているのです。
(ちなみに川畑は、毎月1000km近く運転するので、車側の気持tちも、道路に潜む危険性も、ある程度理解しているつもりです。)
(さらに余談ですが、半年後の更新でようやくゴールド免許になれます😆)
こんなふうに、社会や他人はダメ🙅♂️としていても、自分はOKだと思っていることって、みんなそれぞれあると思うんですよね。
その場合には、自分が信じるルールを、信じ抜くということです。
僕たちは働き方が違うので、世間や周りから、思いもよらぬ批判を色々と受けます。
誰がどう批判してこようと、それはその人の基準でダメなわけであって、それに付き合う必要も、従う必要も一切ありません。
自分に対する約束を守り、自分が決めたルール、道徳心に従えば良いのです。
そして、自分への約束やルールを守って行動した自分を、褒め称えましょう。
こうやって、自分の中にある規律を守って生きることを、僕は父親の愛だというふうに考えています。
例えば僕の場合だと、
「今日行きたくないな〜って思ってたけど、ちゃんと予定通りに筋トレ行けた俺偉いわ〜👏」
「いやー、目の前でチャリ漕いでるおじいちゃんが急にバタン!と倒れてビックリしたけど、考えるよりも先に「大丈夫ですか!?」と声をかけて助けに行けた俺…素敵だわ〜🤤」
こんな感じで褒めたりします。
他にビジネス面でも、
「こんな長い文章じゃ誰も読んでくれないよ。」
と偉そうにコメントしてきても、そんなの知ったことじゃありません。
「そもそも、頭から否定してくるそんなメンタルしてる奴こそ、個人ビジネスで生計を立てるなんて無理だろ。ビジネスを舐めるな。あんたみたいな人、絶対クライアントにしないからな。」
と、心の中で言い返してます笑
このように、自分の行動や仕事内容に対する評価は、自分自身でしていくものなんですから。
自分への評価を他人に委ねない。
自分の行動や仕事への評価は、自分でする事ができれば、気にしなくて良い批判なんて、いちいち気にならなくなります。
うるせぇ、ぐらいでちょうど良いのです笑
今回は、「他人の批判が気にならなくなる」という視点で、父親像、母親像を自分の中に宿していくと、自立したメンタルが手に入るということを掘り下げてみました。
が、この自立したメンタルを作るエーリッヒ・フロム氏の考え方は、かなり本質をついた、本当に素晴らしい考え方だと思います。
なので、今回の文章を読みながら、
「自分の中に、ちゃんと母親像と父親像、両方を宿す事ができているだろうか?」
という、セルフチェックのキッカケにしてくれたら嬉しいです。
おそらく、母親像が欠けている人の場合だと、ついつい誰かに「すごいね」って褒めてもらいたくなると思います。
もちろん僕も含めみんな、褒めて欲しい瞬間はありますよね。
それ自体は悪いことではないのですが、過度に求めすぎてしまったり、誰かに褒められていないと不安になったり、自信を無くしてしまう場合は、あなたの中に母親像を育てられていない可能性があるんですよね。
逆に、父親像が欠けている人の場合だと、自分の行動に対して常に「これって良いのかな?」と、誰かに確認したり、承認してもらわないと不安になってしまう傾向があるのかと思います。
母親像、父親像は、大人になってからでも自分の中に育むことは、十分に可能です。
他人の評価が気になる方は、ぜひ自分の中の母親像、父親像のどちらか欠けていないかを、考えてみてくださいね🤭
というわけで、今回は以上!
ではでは!
身長193cmマーケター
川畑