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ハンドドリップ考

だいたい目分量、まいにち適当、なわたし。適度に適当にほぼまいにち淹れるコーヒーはほんとうにほんとうに、美味しい。

【美味しい大体の分量】豆40gで、コーヒーポットの4のメモリのところにくるくらいまで、お湯を落とすとちょっと濃いめで美味しい。ミルクもあいます。お菓子ともあいます。

わたしは、商品とかそのプロモーションとかのいろんな企画をたてたり、そのコピー書いたりするようなまいにちを送っていて、何がいいたいかというと、コーヒーをハンドドリップするとかいう世界は真逆に存在するファンタジーだった。


そして今もなんだかすごく素敵ライフでハンドドリップコーヒーを淹れてるとかいうことでもなくって、わたしが感じているのはただただ行動、行為としてのハンドドリップが楽しいということ。例えばヨガもポーズ取ることに意味があるんじゃなく呼吸に集中するための手段としてのポーズって、そういうのと似ている。


ただただその行為を通じて集中をして、終わったあとすっきりとさえする感じ。まるでメディテーション、まるで切り離された小宇宙の時間、それでアロマ吸引(コーヒーってアロマオイルがすごくでる)。面倒どころか何だったら孤高の至福のとき。コーヒー淹れてる私が素敵とかとも違う。それそのものが、ほんとに、ほんとに楽しい。


家コーヒーって、カフェコーヒーとかに無い独特の美味しさがある。あれはほんとなんでなんだろう。なんか独特の成分の抽出というか、簡単に言うと満足感。気を抜くと気を抜いた風味になってしまい、精神状況がわかるようにも思うし、だから意識して整えることになる。大袈裟なようでほんと。


母がハンドドリップを好む流れで、わたしも道具は最初から一流のものを使うことに。家庭でコーヒーを淹れる中ではもっともよいものたち、というかプロも使っている道具たち。形から入ったのもすごく良かった。美味しさに直結するから。

カリタのナイスカットミル、タカヒロのポット、カリタのドリッパーとサーバー。これが私の初期らの最高の装備。今も同じものを使ってる。


ところで、行為としてのコーヒー・ハンドドリップ。これは何かに似ていると思ったけれど、ワインとかそのテイスティングとかに虜になっているふうな友人をちょっとだけ白い目でみていたあの頃、あの目線の先にあったそれになっているではないかと、気づいた。

好きなこと、趣味があるっていいことよね、ってうがった見方をしてたのをちょっと反省したし、周りにどう思われるかとかなんて、ほんとどうでもいいことだよなー。自分が楽しくて満たされていること。それの助けになるのがきっとワインであり、コーヒーなんだろうなと、それぞれの人にとってね色々あるよね、自由だよねと、そんなふうに思う。




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