【本】一滴のわたしたちの、生きてる意味なんて
ひとつとして同じでない。かといって特別であるなんてこともない。それが家族であって、そして人だってこと。そんなふうに要約してしまうと当たり前すぎてこぼれてしまう、それにまつわる大切なことを、個人的な物語を通して言葉という形に落として、わたしたちに見せてくれる。
これは、村上春樹『猫を棄てる』の読書感想文。
家族って、幸せなイメージの(しかもそれは限定的な)中に入っている必要があるような気にさせられて、でも、そんなことが可能なわけがないのである。無数の家族の単位、その中に無数の人たち、そして子ども、結婚相手、なんていう無数の関わりが生まれたりなくなったりして、つまり無限の関係性の中に、しかも気がついたら自分は生まれ存在していたりするわけで、選択権もないわけで、だから家族の幸せなイメージなんてものを最初に作ったやつは出てこいコノヤローと言いたい。ただ不思議なもので、「猫を棄てる」を通して語られる村上春樹個人の物語をひとつ言葉にしてしまうと、よくある家族の物語に見られる(と言っていい)父と息子の確執と和解、なんである。その関係性の特別で無さ、に(村上春樹はエッセイやインタビューでよく、プライベートな自分の普通さに言及するが、)少なからず驚きというか、わぁ本当に普通なんだなあと感じる人は少なくないんじゃないかと思う。失礼ながら、あの村上春樹でも、と。
ただその関係性の中の重要な軸として語られるのが彼の父の戦争体験だ。少し話が逸れるが、この本を読むのと並行して私はたまたまイタリアの古い映画「ひまわり」を観た。戦争がいかに個人の一生を狂わせるか、そしてそれがいかに、偶然の積み重なりであり抗えずだからこそ苦しいものなのかを描いた話で、「猫を棄てる」で語られる村上の父の戦争体験と経験の形そのものはもちろん異なるが、体験を要約すると、それは非常に似ているのだった。これは偶然なのかでも、本や映画に触れているとこういう大きな流れの中で自分が今知る必要のあることが、うねりをもって迫ってくることがある。少なくとも私はこのふたつの物語は見させられているんじゃないか、なんて感じた。私たちは、それを繰り返さないために選択しなくてはならないし、今まだその選択権がある。それを大きな何かから伝えられているような、そんな気がする。村上春樹の物語というのは、そういう大きなうねりを連れてくる確率が高い。彼の物語は、時代や世代を超えながらも、同時代的に必然で必要な何かを、必ず、必ず含んでいるからだと、私は思っている。「今」生きてる私たちが立ち向かうこと、流してよいこと、そのエッセンスを共有してくれる。
さて、なんで「猫を棄てる」なのか。それは、ここに書いてしまったら意味がなくなってしまう。父との関係、父の個人的人生を描くことをずっと躊躇していた村上春樹を助けてくれたのが、彼の暮らしでそばに生きていた猫たちだったということ。私も長らく猫と暮らしてきた身だから、ちょっと分かるような気がする。猫というのは、なんだか時に天界と繋がっているようなと言ってしまうと大げさだけれど、本当は何でも知っているのに知らんぷりしているように見えて、だからもしかしたら彼らのもとに猫が帰ってこなかったら、「猫を棄てる」に限らず村上春樹の様々な物語は生まれなかったかもしれない、なんて。
それから「猫を棄てる」は、彼の著作「騎士団長殺し」と合わせてぜひ読んでほしい。「騎士団長殺し」はもちろんフィクションだが、「猫を棄てる」と合わせて読むと、彼の個人的経験が物語に非常に色濃く影響している(だろう)と感じられるエピソードにいくつか出会う。父親の死、それまでの長い長い家族との関係性を通じた体感、感情(それは複雑で一言で言語化が難しい)が創作に繋がってゆく流れを擬似的に追体験させてもらえるようで、そしてそれは滅多にあることじゃないと言えることだから。
最後に、ここからは私の本当に個人的な感覚だし、またちょっと話が逸れてしまうのだがーー「騎士団長殺し」のフォーマットには「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のそれとよく似ているところがあることについて、触れたい。具体的に言うとくらやみを抜ける箇所なのだけど(それはそれぞれの物語の最も面白いところなので読んでいない人は絶対読んでほしいのだけどー)ふたつの物語は、くらやみの先の結末が全く、それはもう全く異なるのである。私にとってはだから「騎士団長殺し」は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のアンサーソングのような響きがあった。そして勝手に、本当に勝手にだけど、村上春樹がこの「騎士団長殺し」の結末をこう書いたのには、家族との関係性が大きく響いているのかもしれないなんて、そんなふうに私には感じられて、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も今ももちろん大好きなんだけれど、今2020年のこの時、「騎士団長殺し」の結末に、そしてこの物語と「猫を棄てる」の響き合いのようなものに、私は底からすくいあげられるような感覚を覚えたのだ。
大きな世界と大地から見たら、ほんとうに小さな一雫の雨粒のような、消えてしまいそうで、なくたってよいかもしれないようなわたしたちが生きてる意味なんて、ある。それを物語を通じて言い切ってくれるのは、そしてそれを読むことが出来て、物語を通し体感さえ出来るのは、なんていう喜びだろう?
その感覚や感情を綿々と世界に響かせることが出来たならそれは、どんなにすてきなんだろう。