「吉井勇君へ」斎藤茂吉
※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。
吉井勇君へ 斎藤茂吉
吉井勇君。
僕がこんな形式で手紙を書くのは生れてはじめてだが、これは約束だから致しかたがない。僕は君が四國九州の旅の先々から吳れた便りを、非常になつかしく讀んだ。短い數語に過ぎないが、實に友情あふるるばかりであつた。
特に長崎からの便りは何ともなつかしくて爲方がない。君は、『長崎に茂吉のあらぬ寂しさは』と歌つたのは旣に以前だが、あの頃は十三四年まへのことだから、今だ元氣があつたではないか。僕が玉姫のことなどを偲ぶと、直ぐエロチシズムだの、茂吉を色魔でもあるもののやうにおもふが、必ずしもさうでなく、なかなかスケブチツクなことは君も知つてゐるだらう。さうだ、君と共に長崎の港に近い山の手を歩いたのは、南国の初夏の特徴を示した、汗ばむやうな夜であつた。あのころは僕も酒が未だ行けたものだが、今はもう駄目になつた。やればやれぬことはないのだけれども、次の日まゐるから結局駄目になつたといふことになる。然るに君はまださうではないだらう。さすればこれを君の德分といふことにしてその權利を譲ることにせねばなるまい。
いつであつたか、僕の東中町の舊居の門のところで君と誰か、渡邊庫輔かが立つて寫眞にうつつてゐたのが何かに載つてゐたやうであつたが、あの東中町の家も喜悲交々といつたやうな思ひ出のあるところだ。湯殿に近くの石垣に蛇などが住んでゐたりして、狭い變なところであつた。
吉井勇君。
君は小説や戯曲を書かうと大望を抱いた時があつたが、やはり歌人ではないのか、やはり抒情詩人ではないのか。さういふことになると、地金を洗へば僕などもやはりさうで、これ以外のことは到底手を延ばし得ない領域のやうである。それだから、歌人は歌人同志で、歌人といへば親しみをおぼえる。好い年をして三十一字でもあるまいなどともいはれるので、餘計に歌を止められない人々に親しみをおぼえるのであらう。
歌壇の現状は誠に賑やかで、君は地方にあつて餘り痛痒を感ぜぬであらうし、僕はまた人麿などばかりいぢつて、とんとその賑やかさには交渉が無いやうであるが、これは努めて交渉がある方が好いやうだから、たまには上京したまへ。上京したところで誰彼にあふといふ面倒などは要らぬだらう。歌人協會も血氣さかんな人の手々によつて好い爲事が成就せられることとおもふから喜んで吳れたまへ。ただ僕は縦ひ會員でも目下少しく食養生をしてゐるので、會には出ない。そしてわけの分かつてゐる人々は、別にそれを批難しもしない。併し若し君が上京してその歡迎會があるなら、その時は出て見よう。
吉井勇君。
君は一體只今どんな面貌をしてゐるのか。彷彿として浮んでくるのは、鷗外歌會時分の若々した吉井勇だ。つまり「酒ほがひ」時分の顔だ。『わが瞳もゆわがこころ燃ゆ』時分の顔だ。併し、現實はもはやさうではあるまい。少しは老いたらうが、その老い加減が見たいやうな氣がしてならない。
四國は僕はまだ好く知らない。けれども人麿の沙彌の島(近く中河君が調べた)、正岡子規の松山など、なつかしいところが多くある。若し遍路のやうな氣持で歩くことが出来たら、心しづかになることであらう。
東京には數日前初雪が降つた。きのふから僕は少し風邪氣味で、きのふよりも今日の方が體温が高い。これから臥床することにして筆を擱く。どうか加餐してくれたまへ。(昭和十一年十二月二十四日)
底本:斎藤茂吉全集第9巻 昭和28年8月10日第一刷
初出:「短歌新聞」 昭和12年1月20日号
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