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[映画感想]'イーダ Ida' (2013) dir. Pawel Pawlikowski
監督:パヴェウ・パヴリコフスキ
出演:アガタ・クレシャ (ヴァンダ)
アガタ・チュシェブホフスカブ (イーダ)
ヨアンナ・クーリグ
1962年、ポーランド。
孤児として修道院で育った18歳の少女アンナは、ある日院長に呼び出され、突然叔母の存在を知らされる。彼女は一度も修道院に面会に来たことはなかったが、アンナの唯一の肉親だった。院長は、アンナが修道女の誓いを立てる前に、俗世間に未練を残さぬよう、その叔母ヴァンダに会いにいくよう命じる。
アンナは生まれて初めて街中に出てヴァンダを訪ねる。ヴァンダは驚きつつもアンナを迎え入れ、そこで数枚の写真を見せながらアンナに衝撃の事実を知らせるのだった。
『あなたの名前は、イーダ・レベンシュタインでユダヤ人よ。』
アンナ=イーダの両親は亡くなっているのだが、どこでどうやって死んだのか、どこに埋葬されているかも分からず仕舞いだという。イーダの両親は何故イーダを捨てたのか、そしてその最期は如何なるものだったのか。イーダは自らの出生の秘密を探る為、ヴァンダと共に旅に出ることになった。この旅は、戦後冷徹な裁判官となったヴァンダにとっても、愛する肉親の行く末を辿る大事な意味を持っていた。ヴァンダには幼い息子がおり、戦時中、姉であるイーダの母に預けていたのだ。おそらく彼女の息子はイーダの家族もろとも殺されていることだろう。息子を喪ったことが彼女を酒に溺れさせ、その死の謎を解明することが、彼女をかろうじて生に駆り立てていたからだ。
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酒を浴びるように呑み、行きずりの男を家に引っ張り込むヴァンダと、神に身を捧げることに不安を抱きつつも、敬虔な修道女見習いイーダは正反対のコンビだった。だが、肉親の捜索を共にするうちにお互いを理解しあうようになる。
イーダの心の片隅には、旅の途中で出会ったサックス吹きの青年リスがいた。もしも彼と結ばれたら、神を捨ててしまったら、私は不安から解放されて幸せになるのだろうか。
ヴァンダとイーダは、戦時中にイーダの両親を匿っていた男シモンを訪ねる。ヴァンダはナチスの残党を尋問する時さながらの凄まじい勢いで、老いて病床にある男を詰問する。
シモンの息子フェリクスが、イーダが身を寄せている教会にやってきた。父を責めるのをやめて欲しいという。その代わり、イーダの両親やヴァンダの息子が埋められている場所に案内すると。
フェリクスはその"埋葬場所"を自分で掘り、数体の人骨を明らかにした。そして、イーダの両親とヴァンダの息子を殺したのは、ナチスでもシモンでもはなく自分だと告白した。何故なら、当時ポーランドでもユダヤ人迫害は公然と行われており、ユダヤ人を匿ったと知られれば、シモンの家族がリンチにあうだろうことは明白だったから。ただ、その時生まれたばかりの赤ん坊だったイーダだけは殺すに忍びず、ユダヤ人と知られぬうちに神父に預けたと。
旅の途中、2人は田舎道に立っていた小さな祠を見つけた。そんなものにまで祈りを捧げるイーダを鼻で笑ったヴァンダであったが、過酷な真実の荒波に飲み込まれそうな今は、ヴァンダはイーダにしがみつくことしかできなかった。戦争を戦うために、息子を手放してしまった。息子は頼るべき母もいない中で殺されてしまったのだ。
イーダとヴァンダは2人で無残な状態の遺骨の泥を丁寧に洗い、一族の故郷の家族の墓に埋葬した。
イーダは言葉少なにヴァンダに別れを告げ、修道院に戻る。
ヴァンダはある日、レコードを大音量でかけ、酒のボトルを一本一気に空にすると、下着姿のままアパートの窓から飛び降りた。
唯一の肉親であったイーダは、ヴァンダが自死した理由をよく分かっていた。息子の元に行ったのだ。イーダはヴァンダの身元を確認し、ヴァンダが残していったものを整理した。ヴァンダは豊かな生活を送っていたため、アパートも広くて快適、素敵なドレスが沢山あった。イーダはしばしの間、それらと戯れる。
ヴァンダの葬儀でイーダは思わぬ人と再会した。サックス吹きのリスだ。リスは彼女にデートを申し込む。イーダはヴァンダのドレスを着てリスと酒を飲み、踊った。その夜、2人は結ばれる。リスはイーダに結婚を申し込む。夢の家のこと、子供たちのこと、リスは自分たちが素敵な家族になれると信じていた。
翌朝、眠るリスをベッドに残し、イーダは修道女の粗末な服に着替えた。その目には一切の迷いを振り切った、凛とした光があった。わずかな荷物を持つと、イーダは踊るような軽やかな足取りで、雪深い修道院に向かって歩いていった。
ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
多くを語らぬセリフ、登場人物すら画面の下の方に押し込んで余白を大きく取り、色も廃した画面。音楽も、リスのバンドが演奏する音楽(ヨアンナ・クーリグのボーカル!!)、ヴァンダが飛び降りる時のレコード、リスとイーダが踊るシーンなど、数える程しか印象にない。徹頭徹尾静謐に、しかし真実が明らかになるにつれ、画面には緊迫感がいや増す構成だ。それと同時に、抑えきれない怒りや後悔、恐怖、底なしの哀しみといった、原始的な人間の感情が静謐な映像の下で静かに爆発する。
戦時中は、ホロコーストが流行病のようにドイツのみならず他の国々をも侵食していた。ルイ・マル Louis Malle監督の名作'さよなら子供たち Au revoir les enfants'を見てもわかるように、ユダヤ人を匿った人々へも容赦なく処罰が下されていた。また、コミュニティがそういった人々へ圧力をかけた、ということも数多くあったことだろう。この作品のシモン、フェリクス親子のように、コミュニティからの圧力に耐えかねた人々も多かったのでは。
孤児としてアイデンティティを奪われて育ったイーダが、疎遠な叔母によってユダヤ人という新しいアイデンティティを持つというのも面白いが、実は当初イーダは、修道女として神へ奉仕することに疑問を抱いていた。つまり、修道女としてのアイデンティティはぐらついていたわけだ。このお話は、さまざまな経験を通じてイーダがユダヤ人として、また修道女としてのアイデンティティをしっかりと確立していくというストーリーでもあると思う。当初迷っていたイーダの心は、最後には迷いを振り切った。神は喜んでおられるだろう。
映画そのものと同じく、静謐な美貌のイーダは、さざなみに乱れることのない湖のような目を持っている。その目が、生まれて初めて見る街の様子や市井の人びと、旅の途中で出会ったジャズという世俗の音楽と青年リスによって、少しずつ変化していく。最後はどうあっても、家族を襲った残酷な運命と対峙せねばならないのだが、それすらも全てを受け入れて尚前を見据えるような、力強い眼差しに変わっていくのだ。
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イーダとヴァンダの関係も、単なる姪と叔母という関係から、真実を追う旅の相棒となり、真実に辿り着いた"真の家族"へと変化していく。私自身は、この作品を見たときにはヴァンダの抱える哀しみに深く共感していた。戦時中も戦い、戦後も裁判官として戦い続けるのはなぜか。世俗的な成功を収めても、毎晩毎晩飲んだくれるのはなぜか。幼い息子を亡くしたからというだけではない。母親は、絶望的な状況であっても、最後の最後まで子供を守ろうとする生き物だ。仮にヴァンダが息子のそばにいたとしても、結局殺されていただろうが、その最後の瞬間まで息子を守るために戦えなかったという後悔が、ヴァンダを蝕んでいたのだろう。
ヴァンダは明らかに神を信じてはいなかったが、イーダという存在を通じて、何かを信じたいという気持ちが再度芽生えたかもしれない。それはキリスト教的な意味での信心ではなく、ひょっとしたらイーダ自身を信じたのではないだろうか。
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