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【掌編小説】ぼくと『マリイ』と君と猫
それは初夏の始まりを感じる日曜日の朝10時で
ぼくは彼女の帰りを待ちながら、コーヒーを淹れていた。
昨日の夜、友だちと遊びに行った彼女は、朝になっても帰ってきていなかった。
別に怒っているわけではないが、いい大人なんだし連絡の1本くらい入れてもいいはずだ。
フィルターにお湯を注ぎながら、ふっくらと膨らむコーヒーの粉を見つめる。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
彼女だろうか?チャイムなんて鳴らさずに入ってくればいいのに。
ぼくはやっぱり怒っているようだ。ゆっくりと玄関に近づき、憮然とした顔でドアを開けた。
そこには、宅急便の配達員が立っていた。
「お届け物です」
彼女の荷物だった。
ぼくは精一杯笑顔に戻して、ごくろうさまです、と言うとサインした。
箱はずしりと重かった。
ぼくはキッチンテーブルに荷物を置き、ちょっと量の少ないコーヒーをマグカップに注ぐとベランダに向かった。
ベランダではいつからか彼女がささやかなハーブを育てていた。
その小さな緑の群れはそこだけで小さな地球にも見える。
コーヒーを飲み終えると、部屋に戻り、さっきの荷物を見た。
ふいに開けてみたい衝動に駆られて、箱を開けた。
濃いピンクの表紙の真ん中に、こちらを見つめる一人の魅力的な女性の写真。
真っ白な帯には「マリイ 松岡一哲(写真)」と薄いブルーの字で印刷されていた。
写真集?ビニール袋を開封し、ページをめくる。
表紙のうつくしい人、町の風景、どこかの少女、旅の風景、表紙のうつくしい人。
ページをめくるるたび「日常、日常、愛すべき日常!」
そんなふうにぼくに訴えかけてくる。
だれかをきちんとこんな風に見つめたことがあっただろうか?
ぼくの愛する彼女はどんな顔をしていただろう?
目をつぶると彼女の輪郭はぼやけ、写真集の中のうつくしい人に入れ替わる。
愛とはいったいなんなのか?そんな陳腐な問いかけが芽生える。
さっきまでの怒りがすーっと静まり、ぼくは早く彼女に会いたくなった。
もう一度電話をしてみよう、駅まで迎えに行こう。
そして、彼女の細部をきちんと見つめよう。
椅子から立ち上がったとき、再びチャイムが鳴った。
ぼくは走って玄関に向かいドアを開けた。
そこには段ボール箱を抱えた彼女が立っていた。
「子猫を拾ってしまったの。ゆい子と一緒に日曜日でもやっている病院を探したりしてて、連絡できなくてゴメンね」
段ボールでは小さな猫がタオルに包まって鳴いていた。
「大丈夫だよ。ああぁ、小さいな」
「飼おうと思うんだけど、どうかな?」
「いいんじゃない?猫は大好きだよ」
「ありがとう、良かった」彼女はほっとしたような顔をして「名前を付けないとね」と言った。
「マリイはどうかな?」ぼくは言った。
「マリー?女の子だって良く分かったね、可愛い」
段ボール箱の中のマリーを見つめる彼女の顔をじっと見た。
疲れているようだったが、その目は輝いていた。
そうだった、彼女はこういう目をしていたんだった。
「マリー、マリイ、マリー」歌うように彼女は言った。
おしまい
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