公園の育む相互不干渉の多様性が好きだ。

公園の育む多様性が好きだ。遊具で遊ぶ少年少女、健康のために散歩やランニングをするご老人、子どもと散歩する若い家族、学生という人生のうちの1/10程度の時間を楽しむ子どもたち。上げればキリがないほどの人たちがいる。人種もジェンダーも年齢も違うけれど、それはそこにいることを許している。

公園における多様性は相互不干渉の多様性だ。世間一般的な多様性の形である、すでに成立している社会へのインクルージョンによる多様性ではない。やはりこれは反発も大きい。ハーマイオニーが黒人になることでの批判は凄まじかっただろう。確かにインクルージョン的多様性は確実に必要なものだ。社会の成熟と多様性の本懐はそれによらねば成立しないことは明白だ。しかし、宮台真司の言葉を借りるならば島宇宙化してしまう世界では、落合陽一の言葉を借りるならば機械によって全体最適化がなされるために各個人の先鋭化がされる世界では、この交わることのない社会を歪みがないように、個別最適化された社会同士のインカージョンが起きないように相互不干渉の多様性を保持することもまた必要なのではないだろうか。

僕はこの相互不干渉の妙をこの公園に感じる。公園において遊具で遊ぶ子どもたちと朝から気功の練習をするご老人の社会が交わることはないだろう。公園というプラットフォーム上の外から彼らを見た時、それは公園にいる人として定義される。しかし、その中においては各々が各々の社会を構成し、わずかな尊重と大部分の興味のなさによって多様性が成立する。今この世界ではお互いの差異に敏感すぎる。違いを感じて相互社会のインカージョンを起こしてしまう。私たちは多様性のために違いに敏感になるのではなく鈍感になるべき部分がある。不感症による不干渉が作る多様性を公園に学ぶ必要がある。少し居心地の悪いような気がするが公園のお互いを否定しない、鑑賞しない、感傷しない、干渉しない居心地の良さを広げればよいのだ。自分の社会の外の人への興味と共感を取り外して、その分だけ自分の社会に目を向ける。そうすればお互いに快適な生活を公園のように送れるのではないだろうか。

そんなことを公園に歩き、SNSを歩きながら感じるのが好きだ。

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