「合理」と「不合理」 揺らぎに迷う私たち
SFTに入ってから、合理的なものに魅せられて
合理的なメソドロジーばかりを学んでいた。
それは学ぶことで確実に何かを得られて、合理の元に成り立つものであり
合理から産んだものに間違いはなかったから。
合理は人が協力して生活するために生み出したものだ。
合理とはすべての人を画一的に考え、コモディティ化した考えのもとで生まれる。
マネジメントの技術だけを言えば、それだけでも十分だっただろう。
しかし、マネジメントは人を扱うものだ。
人は合理を好むが、人の感情は不合理に成り立つ。
合理的な技術だけでは太刀打ちできない人との繋がりが必要になってくる。
合理だけでは、解を出すことはできなかった。
私は、これを痛感していた。
合理と不合理の中に揺れていた。
それはいつからかはわからない。
マネジメントの本を読んでからか
他支部の後輩と触れ合ってからか、支部のうまくいかなさからかはわからない。
学ぼうとして、いくつかの本を読んでみたが
それにより断片的な道具としての不合理を得ることはできたが
本質を見つけることはできなかった。
さらに言えば、今でこそ
合理と不合理を理解できるようになりはしたが、
悩み始めの頃はこのモヤモヤが
合理と不合理から来るものだとは考えもしなかった。
その中で私は確実に自分の中のモヤモヤを背負っていた。
ボランティアは不合理極まりない行動だ。
先ほど合理と不合理の中で揺れていたかわからないと書いたが
私はもしかしたら
そもそもこのボランティアを始めた時から
きっとこの不合理を背負い出したのかもしれない。
合理不合理の主体を自己という個としてみた時
自己犠牲のもとで行うボランティアはまさに不合理だ。
自己という個に対しボランティアは、
本来感情という不合理以外に
その労力に見合った何かを与えてくれるわけではない。
しかし、世の中のボランティアはそれを制度として設けることで
それを行うことに不合理性を感じない人生のメソドロジーを生み出した。
ボランティアという概念、就活でのボランティアの有利性
それ自体大小を考えなければ、社会はボランティアのために
多くのメソドロジーを生み出したことは言うまでもない。
これは、ボランティアという不合理に合理性を付加させ
あたかもそれを行うことを合理的であるかのように示すためだ。
そうする理由は簡単だ。
人は個だけでは生きていけない。
個ではなく社会にとってはそれが合理であるからだ。
しかし、これだけでは私は合理と不合理に悩むことはなかっただろう。
SFTという団体はこの上部だけの合理
ボランティアの個に対する不合理に挑んでいる団体だった。
SFTはこの自己犠牲の不合理に対して、
自己犠牲をする動作主に対してなんらかのインセンティブを与えることで
ボランティアという行動に合理性を生み出した。
しかし、まだこの合理性は中途半端だ。
教科書を寄付する人へのインセンティブは弱く
寄付に対する不合理はまだ突き詰められていない。
このSFTの持つボランティアの不合理に挑む道程にいるがゆえの
合理と不合理の揺らぎによって私は悩まされたのだ。
先ほども書いたように、
今思えばきっと、ここが私の合理と不合理のスタートラインだった。
知らず不合理を使う自分
私はエンゲージマネジメントを行う上で、
支部に「VISION」を掲げた。
これは本から得られた断片的な不合理だ。
「VISION」ドリブン。つまりは理想をもとに原動力を持っていく。
理想、原動力はどちらも不合理なものだ。
しかしこの不合理に共感した人は心を躍らせ、自走する組織になる。
私はこれを知識として理解、納得をした。
それを不合理として理解をせずに。一つのマネジメントのメソドロジーとして。
それはこれを示してくれた本は
メソドロジーの一部として、
この不合理を実に合理的に示してくれたからだ、
私はこの不合理を不合理として理解せずに、組織を動かす合理
つまりはメソドロジーとして理解した。
私が最近よく言っている
それ自体はメソドロジーに則っているが、
そのメソドロジーを動かす根幹は不合理のもとにある
とはこのことだった。
ちなみに
「VISION」(理想)が不合理だとしたら、合理はデータドリブンな目標や現実であり
ドリブン(原動力)が不合理だとしたら、合理はインセンティブ(誘引に寄る行動)だろう。
アートは「合理」と「不合理」を示してくれた
私はこの悩みの中で、アートを見ることにした。
理由は合理不合理とは関係なく
カルトコミュニティを作りたかったからだ。
カルトは合理以上に人の心を惹きつける必要がある。
アートにはこれと同じものがあると考えた。
これは少し話がずれるが
アートと宗教、コミュニティは同じ土壌にある
本来の価値以上にそこから生み出されるものには
それに準ずるファンやメンバーは価値を見出す。
だから、そのアートの手触りを感じながら
自分の持つ思想とアートを比較して
何かを得られるのではないかと思い
アートというフィルターを通して自分を見つめ直すために
これまでの人生で触れたことのないアートに頼った。
私がこの経験でアートの中で見たのは
合理と不合理の調和をめぜす
健気であり、奮闘をする人間の世界だった。
ここでいう合理とは「人」であり、不合理とは「自然」である。
人は自然という不合理な世界の中で、
サイエンスという物差しを使って合理を生み出してきた。
それは、人の持つ不合理への憧れによるものだったのではないかと私は感じた。
人は自然の持つ「わからなさ」という不合理に
なんとか合理を見つうけ、枠組みの中に当てはめて
理解し、自分の物にしようとしてきた。
自然への憧れから、自然という不合理を
人の合理に当てはめて理解しようとしたのだ。
しかし、同時にその自然への憧れから
これを作ろうとした。これがアートだった。
アートは人と自然、合理と不合理の揺らぎの中から生まれたものだ。
そう感じた。
人はなんとか自然という不合理にアートを使うことで合理と不合理の調和を生み出そうとした。
だから、アートとは人の持つ自然観であり、
合理を目指しながらも不合理に憧れる人間の自己矛盾に人は心を躍らせてしまう。
私はこの、アートの持つ合理と不合理の揺らぎを見つめ
「合理」と「不合理」
そしてその間の揺らぎを客観的に見る機会を得ることができた。
この機会のおかげで
このすべての解釈を得ることができた。
私は「生」と「死」を求めた
私はアートで「自然」と「人」の対比をみてから
次は人の「生」と「死」に触れられる場所へ行きたいと思った。
「生」と「死」もまさに合理と不合理の対比だ。
「死」は誰にでも訪れるまさに合理的なものだ。
しかし
「生」はそこに正解はなく、人によって様々な形を持つ
これは画一化されたコモディティから生まれるものではなく
不合理そのものだ。
そして、人はその中で揺らぎ、迷っている。
だから私はこの「合理」と「不合理」に魅せられて
「生」と「死」を探そうとしたのかもしれない。
結局私はそれを感じられる場所へ行く前に
これに気づいて行くことはなかったが
また時間があればこれが正しいのか確かめに行ってみたい。
長くなったがここで終わりたいと思う。
今回のこの文章は
#悪になって自分を見つめ直そうweek
の結果得られた。
私はこの企画で、
これまで盲目的に毎日時間割に合わせて大学に行っていたのを見直し
1週間の間大学に行かずにこれまでやったことのないことをしてみた。
そしてこの経験を思考を得られた。
だから、もし何かに悩んでいる人がいたら
ぜひ、これまでしたことのないことをしてみて欲しい
新しい経験は何か新しいものを見つけ出させてくれるかもしれないから。