ryuchellさんの件について思うこと
こんにちは、ショーンと申します。
自己紹介はこちらをご覧ください。
今回の綴るのは、私がnoteを始めるきっかけの1つである、ryuchellさんの離婚の件についてです。
ryuchellさんは結婚後徐々に自分に対して違和感を感じるようになり、最終的に夫婦関係の解消に至ったということです。
まず私の感じたことを綴る前に、大前提として以下は念頭に置きます。
すべてはryuchellさん、pecoさん、息子さんが感じて考えて決断するもので、私含めた他者がジャッジするものではないこと
ryuchellさんの言う「本当の自分」というのが何を指すのかは、本人の口から明言されていないこと
すべてはグラデーション
私が真っ先に思い出したのは「すべてはグラデーション」という言葉です。
この言葉は、ジェーン・スーさんが何かのラジオでおっしゃっていたと記憶しています。
どんな文脈で登場した言葉かは忘れてしまいましたが、とても心に残っていて、私にとって大切な言葉の一つです。
私がこの言葉から受け取ったメッセージは
自分という存在は、常に「変化」する(してもよい)ものであること
自分という存在は、特定の概念で明確に言語化できないこともある「曖昧」なものであること
です。
「自分」の部分は「他人」と置き換えることもできると思います。
私のセクシャリティについて
ryuchellさんのお話の前に、私のセクシャリティについてお話しさせてください。
現在、私は自分をゲイだと思っています。
実のところ、自分自身を「ゲイ」という言葉で表現するのは初めてです。
少し前まではバイだと自認していましたし、その前はヘテロ(異性愛者)だと思っていました。
こう書くと、まるで何かのターニングポイントでガラッとセクシャリティが変化して、その度に私が明確に自分のセクシャリティを認識していたような印象を与えてしまうかもしれません。
それは違います。
私が感じていたのは、その時々で変化する不確かなもので、
複数の曖昧な「自分」を同時に内包する多重人格のような感覚でもありました。
それは、「本当の自分」が変化していたのか、「本当の自分」を確立する過程だったのか、「本当の自分」は最初から存在していて自分の感じ方が変化していたのか、私にもよく分かりません。
そもそも「本当の自分」などというものは存在しない気もします。
ただ少なくとも、「変化」していたことと、「曖昧」だったことはたしかですし、
「すべてはグラデーション」という言葉はそれを言語化してくれました。
例えるなら、小学生の頃に絵を描く時に使っていた筆を洗うバケツです。
色んな色の絵の具を水に溶かして、色が混ざり合って時間と共に変化していく、何色とも決められないし、どこから見るかで色が変わる、そんなバケツです。
綺麗な色も汚い色も、濃淡もあります。
無理矢理すべてをかき混ぜて一つの色にしようとすると、どす黒い液体が出来上がります。
一つの色で定義しなくてもいいんじゃないか、「変化」する「曖昧」な色でいいんじゃないか、そんなことを思うのです。
一貫している、ということ
現在はLGBTQという言葉が広がって、多様な性的指向や性自認が概念として理解されて始めているように感じます。
概念に自分を当てはめることで、所属する安心や他者との共感を得られますし、他者にも自分を説明しやすくなります。
ただ、すべての人が常にその「概念」にしっくり当てはまる必要もないし、自分に近しい「概念」が変化してもよい、
つまり、常に一貫した自分であろうとしなくてもよいのではないかと思うのです。
世間では、一貫性が求められているように感じます。
SNSやYouTubeで考えを発信できる場が多いからこそ、一貫性の検証が容易になっているようにも思います。
今回のryuchellさんの件も、彼氏、夫、父親として世に出ていたこととの矛盾を指摘する声があります。
一貫している人が信頼を獲得しやすいこともわかります。
それでも、「変化」する「曖昧」な自分や他者を受け入れたいのです。
「いい大人が思春期の学生みたいにフラついたことを言うな」「自分と向き合いたくないための子供じみた甘えだ」と言われてしまいそうですが、これが今の私の素直な気持ちです。
ryuchellさんの件について思うこと
ryuchellさんのいう「本当の自分」も、極めてグラデーションに満ちたものだったのではないかと思うのです。
今回の件についてネットを覗くと、沢山の声援の中に、「自分のことを隠して相手を騙して結婚するなんて不誠実」「今までいい人ぶっておいて嘘ついてたとは最低」という声も見かけます。
そのような声には、私自身も傷つくと同時に、違和感を感じてしまいます。
そもそも前提として、私含めた外野にジャッジする権利はないですし、
結婚前から確立された不変な「本当の自分」があって、それをryuchellさんが認識していたとは限らないからです。
もちろん、外野の私は実際のことを知りえませんが、変化しない明確な存在を前提にすることに違和感を感じるのです。
自分自身と向き合うのは、とても労力のいることです。
しかも、テレビタレントとして大衆向けの「いい彼氏」「いい夫」「いい父親」というヘテロ男性像にハマることを求められる中では、特にでしょう。
さらに、それを世間に公表するのはとてつもない勇気のいる行動だったと思います。
その勇気は、自分や他者やものごとの「グラデーション」について考えるきっかけを与えてくれました。
世界は誰かの勇気で動いている、私もまずは自分と向き合う勇気を持ちたい、そんなことを考えさせてくれました。
まとまらない文章になってしまいましたが、長文にお付き合いいただきありがとうございました。
考えていることを文章にするのは難しいですね。
考え始めると、考えが次々と連鎖します。でも文章にすると、少しだけその鎖の絡まりが解ける気がします。
これから時間はかかっても、文章を通じて自分を見つめ直していきたいと思います。
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