支配と幸福(1)

この世は支配で溢れている。もっというと、この世には支配するものか、支配されるものしか存在しないと考えている。月並みな表現だ、当たり前だろと思ったそこのあなた、本当に当たり前でしょうか?上記の二者択一は、一言で語りつくせるものではありません。

数学の場合分けの手法に、弁図というわかりやすいものがあります。弁図で先程の二者択一を捉えなおしてみましょう。

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支配するものの集合Aと支配されるものの集合Bがあるとき、領域は4つに分類できます。1.支配するもの(Aだけに囲まれる部分)、2.支配されるもの(Bだけに囲まれる部分)、3.支配され、支配するもの(AとBの共通部分)、そして4.支配されず、しないもの(AとBの外側)です。このとき、私は先の言説「この世には支配されるものか支配するものしかいない」とは、4.支配されず、しないものが存在しないということなのです。

少々回りくどくなってしまった感がありますが、人間として現代に生まれた以上、どんなイデオロギーにも属さない人間などいないのです。

~いいわけ~
ここまで聞くと誰しも、そりゃそうだと頷いてくれると思うのですが、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと諭吉も言ってるだろ!と言うアホが湧いてこないとも限りません。諭吉の学問のすゝめ冒頭のこの箇所はしばしば、平等を訴える際に引用されますが、そのような場面を見ると微妙な気持ちになります。あれはちょっと読み進めれば、”天は”、確かにそのように人間を作る際に差は与えていないが、実社会を見ると、天のあずかり知らぬところで人間が自ら社会に格差を生んでいる。その格差の原因は学問をしているか否か?なので、みんな、学問をしよう!という呼びかけなのです。少し穿った見方をすれば、諭吉は実社会における不平等を正そうなどとは思っておらず、学問をして支配する側に回ろう!と、存在する格差に対して一度諦め、それなら楽な立場に立とうという、昨今のポリコレブームの中においては叩かれかねない主張をしているのです(ポリコレブームも相当くだらないですが)。それを引き合いに出して平等を訴える人は大体学問をしていないと思われるので、この構図は相当しょっぱい、ということになります。

ある界隈に要らぬ喧嘩を売ったような気がしないでもありませんが。話を元に戻すと、支配から完全に脱却して生きている人間など存在しないのです。

自分のイメージする支配とはなにか、これについてまだ言及していませんでした。それは言い換えると、自己の意思決定に影響をもたらす外部的要因だと思っています。なので、生まれた時点で多くの人間は親に支配され、また戸籍登録した時点で国家の支配を受けることとなります。親がいない、無戸籍な人間も一定数いるでしょう。しかしそういった人も、何らかのコミュニティに属さないと生きづらいでしょう。属した時点で、そのコミュニティの支配下に入ります。何にも属さない人間もいるでしょう。しかし彼らも、最低限食事をとらないと命を放棄することになります。そのためにゴミ箱を漁れば、そのゴミを生み出している社会の影響を受けることになるし、狩りをするにしても自然の影響を大きく受けることになるのです。

根本的な支配論はわかっていただけたでしょうか。では次に、精神の支配について考えてみます。これまで述べてきた支配は、すべて必要条件というか、人として生まれた以上最低限逃れられない支配についてでした。しかし、支配には十分条件も存在します。それは、幸福と結びつくのではないでしょうか。

人として生まれた以上、支配から逃れることはできないと述べてきました。そのうえで、人が幸福に生きるには。ある個人が、既存の支配構造との折り合いをつけることができたとき、支配のなかでその人は幸福だと言えるように思います。受けている支配と、自我とのパワーバランスがその個人にとってちょうどよいとき、幸福なのです。この幸福については、しっかり書くと長くなるので今回はここで切ります。ではまた次回。Stay Tuned!

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