自分のための自分になるな,世界のための自分になれ。
皆さん、こんにちは。
最近この言葉を聞いたとき、
果たして今の自分の選択はあっているんだろうか。
そう葛藤しているサリーです。
ちなみにこの言葉は私の師匠が第一回講義で話した言葉です。
これを聞いたとき、やっぱりいうことが違う!と思うと同時に、
今私が行っている一瞬一瞬の行動は世界のためになっているだろうか、
そう自問自答させられています。
今の職場は自分のためにいている?
うん、そう。
確かに自分が生きていくために、銭がいるから働いている。
会社の利益のために働きたくなくて、
それならまずは自由時間が多い職場がいいと念じた結果
今の職場にたどり着いた。
正直言って行動的自由は多くはないが
考察できる時間はたくさんあるし、
定時で帰れるから、自己メンテナンスや
社外の人たちとつながることが出来ている。
それに自己投資や実家のサポートもしているから、
そう考えると自分だけのためには動いていないようにも思う。
自分のための自分とは
自分のための自分っていったいどういう状態だろう。
受け身とか?
give and takeがないとか?
takeだけでも、giveだけでも自分のための自分になるのかな?
今の楽さとか、欲求を満たすために生きることかな。
傷ついて悩んだり、チャレンジを辞めちゃうことも
自分のための自分になっているんだろうか?
悶々と一人で悩むことも
もしかして自分のための自分なのだろうか。
確かにそうかもしれない。
自分の悩みを一緒に悩み、
その過程で相手が成長するかもしれない。
そう考えると悩みを打ち明ける、
弱い部分を見せるなども、
相手のためになる。
それをせずにずっと止まったままでは、
それは自分のための自分になっているのではないだろうか。
あ、あとは健康をないがしろにした行動も
自分のための自分ではないだろうか?
だんだんと見えてきたぞ。
世界のための自分とは?
なら世界のための自分とはいったいどういった状態だろうか?
さっきの逆を行くと、
積極的?
give and takeがバランスよく行えているかとか?
無我の状態でいきていくとか?
失敗しても次に活かしてチャレンジしていくとか?
それが世界のための自分?
弱みも悩みもすべてありのままでいること?
隠し事もなく、素直に生きること?
自分自身の視点だけで、物事を考えたり、
思考したり、行動しないこと?
今の自分は。。。
そう考えると、旅をしていた小学生、中学生のころは
社会のための自分として生きていたように思う。
ただ旅をやめた高校生の頃は
確かに自分のための自分として生きていた。
そのあと臺灣では、
自分のための自分と、日本と台湾のための自分の葛藤を
味わっていたように思う。
帰国後は、
世界のための自分になるために、
自分を癒していたように思う。
そして今は、
やっと世界のための自分として
一歩一歩歩みだしているのかもしれない。
まとめ
これを書き出す前は、正直葛藤で渦巻いていたし、
焦った自分もいた。
けどこうやって文字化してみて、客観視すると
案外焦らなくても、人生の様々な経験というなの旅を通して
世界のための自分になっているんだな。
このまま世界のための自分とは何なのかを忘れず生きていけば
問題ないだろう。
そう思うところまでは行きつくことが出来た。
よし、この記事の目的はひとまず果たせたので、
ここで一旦終わろうと思う。
次はずっと抱えてた、核家族の末路についての葛藤でも書こうかしら。
ここまで読んでくれて有難う。
ではまた次の記事で。
サリー。