見出し画像

【マーラー交響曲第2番《復活》 分析編④】第3楽章

《復活》分析編第4回やっていきましょー!
今回は第3楽章の分析です!!

ハモンドオルガンちゃん的には《復活》の中で一番好きな楽章かもしれません!分析が楽しみですね!

3楽章は歌曲集《子供の不思議な角笛》から素材・主題が転用されており、そのため《復活》はマラ3・マラ4と合わせて角笛三部作と呼ばれています。

本日の目次はこちら(タップorクリックで飛べます)

第3楽章

ABABA形式

第3楽章の構成

2楽章と同じようにABABAの構成になっています。

部分Aは『魚に説教するパドバの聖アントニウス』の主要な素材
部分Bは新しく作曲された素材・引用された素材

で構成されています。

主題・動機

『魚に説教するパドバの聖アントニウス』の主題

『魚に説教するパドバの聖アントニウス』の主題

歌曲集《子供の不思議な角笛》の『魚に説教するパドバの聖アントニウス』から転用されている主題です。
無窮動(常動; 早いテンポで常に一定した音符の流れ)的な音符の流れは聖アントニウスによる魚への説教を表しています。(念仏のように滔々と語られる様な音符の動きがまさに説教のようです笑)
『魚』は諷刺の効いたブラック・ユーモアあふれる寓話で、クラリネットに登場するフレーズはわざわざスコア上にmit Humor(おどけて)という表記があります。

クラリネットのおどけた主題

チェロ・コントラバスによる新しい主題

ファンファーレにつながる主題

第2部(B)の始めにチェロ・コントラバスによってC durで登場する新しい主題。次にD durで登場する金管楽器によるレントラー風のファンファーレにつながる主題です。

金管楽器によるレントラー風のファンファーレ
(ハンス・ロットの交響曲第1番スケルツォ楽章からの引用)

金管楽器によるレントラー風のファンファーレ

金管楽器によってD durで登場するファンファーレ。
《巨人》2楽章の主題によく似ていますが、元々はウィーン音楽院在学時代の友人で、同居していたこともあるハンス・ロット交響曲第1番からスケルツォ楽章(第3楽章)の主題を引用したものです。

ハンス・ロット 交響曲第1番(1874-1875年) スケルツォ楽章(第3楽章)の主題
マーラー 交響曲第1番《巨人》(1884-1888年) スケルツォ楽章(2楽章)の主題

トランペット・木管による叙情的な主題 一度だけ現れる旋律

トランペット・木管による叙情的な主題(譜例はフルート)

この楽章唯一の叙情的な旋律。マーラーはこの部分を「最も美しい一節」と呼び、

「この作品のうねるような高波の中で一度だけ現れ再び耳にすることはできない」

と言っています。この言葉どおり、この楽章で一度しか出てきません。

「生きることそのものに意味がない」
夢から醒めて再び直面する混乱した人生

このスケルツォ楽章(3楽章)は《復活》のストーリー上、

夢から醒めた後に再び直面する混乱した人生に対して抱く懐疑や憎悪

という場面になります。
(夢=2楽章のことですね。)

『魚に説教するパドバの聖アントニウス』を転用した理由

マーラーが『魚』から主題を転用した理由は2つあります。

①スケルツォ楽章には「無窮動」な『魚』の主題が最適だと思われたため
②諷刺的なユーモアがある『魚』がマーラーが3楽章で意図していたコンセプトと合致したため

スケルツォ楽章には『魚』の主題が最適

『魚』は教会に説教に行った聖アントニウスが、教会に誰も説教を聴きに来ないので、代わりに魚に説教をしたが魚たちはすぐ忘れてしまう。説教とはどれほどウケの良いものであっても、結局は無駄である。という諷刺が効いたブラック・ユーモアな寓話です。

この主題が最適、というのはブラック・ユーモアな寓話である『魚』から滔々と語られる説教を彷彿とさせる主題を転用することでシュールな笑いの要素を織り込もうとしたのでしょうか。

3楽章のコンセプト:
「ゆがんだ鏡の中の世界」、「人生とは意味のないもの」

3楽章のコンセプトについてはマーラー自身によっていくつか言及されています。いくつかピックアップしてみます。

 スケルツォで表現されているものについては、このようにしか説明できない、たとえばきみが窓を通して遠くから踊りの様子を、その音楽を聞くことなしに眺めているとする。
 そうすると、主要な要素であるリズムが聴こえてこないから、カップルがくるくる回って踊る様子は、奇妙で意味のないものに思われるだろう。見捨てられ、つきにも見放された人間を想像してごらん。そういう人間にとっては、世界はゆがんだ鏡の中のように、逆転し常軌を逸した姿として現れる。そんな迫害された魂の恐怖の叫びをもってスケルツォは幕を閉じる。

1896年1月 ナターリエ・バウアー=レヒナーとの会話より

 きみが物思いに沈んだ夢から目覚めると、再びこの混乱した人生に対峙しなければならない。そしてこの終わりのない動き、休みなく、決して理解されることのない人生の喧騒は、ちょうど暗い夜に屋外から見る―遠すぎて踊りに伴う音楽は聴こえないのだ!―、明るく照らし出された大宴会場で踊る人々のうねりのようにきみの目には恐ろしく映るだろう。そんな時、いかに「人生は意味のないもの」に思えるだろう。あまりにも不快で、叫びとともに飛び起きるひどい悪夢のようじゃないか!それが第3楽章なんだよ!

1896年3月26日 マックス・マルシャルク宛の手紙より

 不信と否定の精神が、彼(後に死ぬことになる)の心を占領してしまう。彼は時代の混乱状態を目にする。また彼は子供の純粋な心を失ってしまったので、愛だけがもちうる確固たる基盤も失ってしまう。彼は自分自身と神に絶望する。世界と人生は彼にとって奇妙な幻影に過ぎなくなる。現在と未来のすべてのものに対する嫌悪の念が鉄の指で彼を掴みしめあげるので、彼は絶望のあまり絶叫する。

ドレスデン公演に際してのマーラーによる解題より

これらの解題から、マーラーが世界や人生に関して複雑な感情を抱いていたことと、3楽章としてその世界観が描かれていることが分かります。

ハモンドオルガンちゃん的3楽章の解釈

僕の3楽章についての解釈は以下の通りです。

・『魚』の無窮動な主題は、シュールな笑いの要素を加えると共に、「終わりのない動き、休みなく、決して理解されることのない人生の喧騒」も表す役割を果たしていると思われます。

世界が「ゆがんだ鏡の中のように、逆転し常軌を逸した姿」として見える、迫害された魂をもつ人々はユダヤ人のことを示唆しているのかもしれません。(《復活》作曲時点はマーラーはユダヤ教徒。)

「ゆがんだ鏡の中の世界」の「ゆがみ」はブラック・ユーモア的な笑いの要素と「終わりのない動き、休みなく、決して理解されることのない人生の喧騒」のシリアスな要素をどちらも持つ『魚』だからこそ演出できている、と理解できます。こうしてみると、3楽章には『魚』の転用が必須だったことが分かります。

以上をまとめると、3楽章で描いていることは

世界と人生は奇妙な幻影に過ぎない=「人生とは意味のないもの」

になるということになります。

まとめ

3楽章に織り込まれているブラック・ユーモア要素とシリアス要素についてご理解頂けたでしょうか。こういう手法がハモンドオルガンちゃん的にはドツボです笑 曲の成り立ちや背景を調べると、作曲家の人生観や世界観が垣間見えておもしろいですね。








サポート(投げ銭)でnoteのクオリティと執筆者のモチベーションが上がります!🔥🔥 このnoteの曲解説がおもしろい!!と思われた方はぜひ!投げ銭をよろしくお願いします!🙏🙏🙏✨