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【ショート小説】ベランダ×椅子×私


 秋の夕暮れ時の風は心地いい。
 特にベランダで感じる風は、形容し難いものがある。
 少しだけ体を前に乗り出してみる。下を向けば、毎日歩く道や仕事帰りに立ち寄るコンビニ、そして週に一度は通う珈琲屋さんが見えた。
 ここから見ると、馴染みある景色をどこかカメラのファインダー越しに見ているようで、不思議な気分に陥ってしまう。
 それくらいベランダは私にとって、身近にある異世界じみた場所かも知れない。
 視線を右に移せば、この大して広くもないスペースに、椅子が一脚こちらを背にして佇んでいる。
 使わない椅子。使えない椅子。二週間前の会話が頭の中に蘇った。

 「美和《みわ》ちゃんって本当にベランダが好きだね」
 健人《けんと》がタバコを吹かしに隣にやってきた。
 「ねぇ、健人。ベランダってなんでベランダっていうんだろう」
 「あぁ、インドから来た言葉らしいよ。昔、大工の親父が言ってた。でもバルコニーと何が違うんだろうね」
 そう言い終わった健人が、タバコに火を点けた。 
 「そんなにベランダが好きならさ、椅子を買えばいいんじゃない? 」
 えっ、と健人を見れば、タバコの煙をふーっと吐き出していた。私に配慮して反対に吐き出した煙は、風によって私の方に運ばれてくる。
「ごめん、ごめん」と手をパタパタさせながら笑う顔はいつもの健人だった。
 ただ、タバコの匂いを除いては。
 それから一週間ほど経った時、家に大きな荷物が届いた。
 中を開けてみれば、防水加工されたベランダ用の椅子だった。
 そして「美和へ」と健人の字で書かれた小さなメッセージカードが挟まれていた。 
 私はそれを開けなかった。開けなくとも五年も連れ添っていれば、何となく何が書かれてあるかは容易に想像できた。

 そして私は今、あの時と同じようにベランダにいる。
 たった数週間前の事なのに、昔日を想う気持ちになるのは、このベランダのせいなのだろうか。
 それとも、この椅子のせいなのだろうか。
 椅子はこちらを背にしている。まだ座ったことのない椅子。
 右手には、開封済みのメッセージカード。その裏に書かれているのは、三文字の幼稚で不器用なメッセージ。
 「分かってたよ」と誰に言うでもなく呟いた言葉は、目の前の景色に吸い込まれていった。
 ゆっくりと椅子をこちらに回転させ、腰を下ろしてみる。
 ——悪くない。椅子も、この気持ちも。
 明日はこの場所から、どんな景色が見えるのだろうか。今度は下を見ず、空を見上げた。遠くの空の星が、微かに揺らいでいた。

—了—

あとがき
人の恋模様は言葉では語り尽くせないものがありますね。
美和の健人への想い、
健人の美和への想い、
三文字はどんな言葉だったのか。

考察を楽しむ。
それが創作物の醍醐味ですね。

「あなたのイマジネーションこそ何にも勝る真実です」 by しゃろん;

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