桃太郎伝説を追って 〜正史とその反対側〜
7月半ば。夏が本気を出してこようという頃、私たちは縁あって岡山の地を訪れていた。
なかなか中国地方に行く機会もないため、そちらの山でも登ろうかと考えていたが、あいにく天気があまり味方をしてくれそうになかった。だが、山の他にも見どころ満載の岡山である。他のディープな岡山を探ることにした。
そして目につけたのが「桃太郎伝説」
ベタなテーマだが、岡山に行くのであれば決して無視できないものと感じた。そしていざ探ってみると、そこには隠された物語の裏側が見えてきた。
(もものしゃしん)
物語『桃太郎』とは
桃太郎とは何か、というのは野暮な話だろう。日本人であれば誰もが知っているおとぎ話である。桃から生まれた男の子がおじいさん・おばあさんからもらったキビダンゴをたずさえ、道中でイヌ、サル、キジを従え、鬼ヶ島の鬼をやっつけにいく。そんなシンプルなヒーロー物語だ。
ただ、この物語にはさまざまなバリエーションや系統があるそうな。
例えば、ある時代には「桃→桃太郎が生まれる」という果生型なのに対し、あるときは「桃→おじいさん・おばあさんが食べる→若返る→桃太郎が誕生」という回春型だったりと、時代や場所によって少しずつ物語が違うらしい。物語成立の歴史を辿るとまだまだ謎多き「桃太郎」だが、少し調べてみるだけでもこれらの「桃太郎研究」は面白いので、ぜひこの世界を覗いてみてほしい。
『桃太郎』と岡山県
これも驚きだったのだが、『桃太郎』のゆかりの地とされる場所は全国にあるらしい。ただその「ゆかりの地」候補の中で最も有力とされるのが岡山県とされており、そこには以下の三つが根拠として挙げられているようだ;
吉備団子
桃
吉備津彦命の温羅退治伝説
とはいえ、これらの根拠がはたしてどれほど強力にその物語の発祥を裏付けるかは定かではない。キビダンゴがこの世の中に出てきたのは江戸時代後期のことで、『桃太郎』成立よりも遥かに後である。つまるところ、キビダンゴの後出しジャンケン感は否めない。
それに桃に関して言えば、美味しい桃がとれる地域というのは何も岡山に限った話ではない。東北や中部地方でもたくさん桃はとれるということで、『桃太郎』発祥の地としての根拠は少し薄めだ。
ただ2018年に岡山県が『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産への認定を実現した。そして、その根拠としては主に「吉備津彦命の温羅退治伝説」をあげている。
物語のもととなった、物語。
そこにはたして、どのような世界が広がっているのだろうか。
吉備津彦命の温羅退治伝説を追って
吉備津彦命とは古事記や日本書紀に出てくる人物の一人だ。第七代孝霊天皇の息子で、中国地方方面を治めるために派遣されたらしい。
その吉備津彦命だが、その当時「鬼ノ城」を拠点に岡山周辺を治めていたという温羅を退治すべく、戦いに挑んだ。この戦いの詳細は吉備津神社にある。
本当はこの旅でその吉備津神社にも行けたらよかったのだが、今回は時間がなく断念。ただ、退治されたという温羅の首が祀られたという|白山神社《はくさんじんじゃ》にはいくことができた。
白山神社 〜敗れたものは眠り、語る〜
実際に温羅の首が祀られているという白山神社。岡山駅から車で20分ほどいくと、ナビは小高い山の麓にある閑静な住宅街に私たちを案内した。
細々とした道を行き、車を神社手前にある広めの道路に止める。降車すると、少しだけじめじめとした湿気がまとわりつく。今にも雨が降り出しそうな空模様の中で少し歩くと、雑草がぼうぼうと生えた白山神社にたどり着いた。
明らかに観光地のような雰囲気はないその神社は、周囲の集落に溶け込んでいる。つい地元の小さい神社を思い出したが、この地域の子供たちはここでよく缶ケリやかくれんぼのような遊びをするのだろうか。
鳥居の手前で、礼をひとつ。弁慶の泣き所ほどまで伸びた雑草の中をズンズン進む。神社の空間に入る手前から感じていた少し悲しげな雰囲気は嘘ではなさそうだ。この日の曇り空のような空気が漂っていた。
二匹の狛犬に出迎えられると、なにも変哲のない普通の神社が顔を出す。だが、一つだけ違う部分があって、それは首塚である。かつての備津彦命《きびつひこのみこと》と温羅の伝説でやっつけられた温羅の首が眠るとされる塚が、右手に堂々と現れた。思っているよりも大きく、りっぱなものだった。今にも塚の盛り上がりから何かが出てきそうな、そんな予感も。不思議なエネルギーが宿っているようにも思えてならない。
ヒーロー物語にはいつも正義と悪者がいる。この伝説の中で温羅は「悪者」だったわけだが、はたしてどのような悪さを働いたのだろうか。そして、どうして彼は殺されなければならなかったのだろうか。そんな疑問を抱きながら、その首塚に対峙する。すると、温羅の首は、意外なことを語り出した。
温羅の正体
首塚の隣には白山神社の説明書きとともに、伝説と温羅に関することが丁寧に書いてあった。
書いてある伝説は、次の通り。
この辺の鬼とされた温羅を吉備津彦がやっつけたという話。加えて、首を取られて死んでからも、土の中から温羅は唸り続けた。それを吉備津彦がおさめた。そんな伝説も残っていた。この「首」にちなんで首部という地名が名付けられており、そのことからこの伝説がどれだけこの地域で意味を持ってきたがよくわかる。
そしてその伝説の後には、温羅あらため「米神」の話が書いてあった。彼がどんな人だったのか、何をしたのか。私が疑問に思っていたことについての説明で、全文は次の通り。
読んでお分かりの通り、驚きのことが書いてある。言い伝えによると、米神(=温羅)は好青年で、地域の発展に寄与していたらしい。お米の生産量を向上させ、神として崇められるほどであるから、相当な尊敬と人望を集めていたに違いない。まったくもって、温羅が悪である語りはどこにもなく、吉備津彦に殺された理由が見えてこない。
大きな矛盾が存在する。
一方は悪だと言って裁きを下し、もう一方はいいやつだったということで神として崇めらた側面を持つ。
これはどのようなことなのだろうか。
「正史」の反対側
この説明は実は簡単だ。
どうして吉備津彦は「悪」である温羅に正義の制裁を加えたと言われ、一方で温羅は好青年で地域に大きく貢献していたと言われ、その間に矛盾が生じるのか。
それは、前者の物語が「正史」だからである。
正史とは何か。その名に「正しい歴史」とあるように、正しいとされてきた歴史のことだ。侵略した当時の政権側が受け継いできた歴史語りであり、そこには「悪」があり、「征伐」という形で正当化している。だから、桃太郎伝説の元となったこの伝説では、好青年で尊敬を集めたであろう温羅が「悪」とされ、それを成敗した吉備津彦はヒーローとして受け継がれる。そして桃太郎となり、今に流れ着く。
どうして吉備津彦の伝説が正史と考えるかというと、同じような構図の伝説が東北の地にも残るからだ。東北には多くの「坂上田村麻呂」の伝説が残っている。田村麻呂がの腰掛けた場所が神社になったとか、彼が英雄とされる伝説が東北のあちらこちらに残る。だが、あくまでも東北は「侵略された側」である。政権側の坂上田村麻呂にかつて侵略されたはずの東北の民が、事実、侵略してきた彼のことをヒーローとして崇めている。これほど違和感のある構図はなく、明らかに歪んでいるように感じる。ちなみに、民俗学者の赤坂憲雄さんは東北の坂上田村麻呂伝説が残っていることについて、次のように語る。
歴史や物語にはいつも、裏の側面がある。それは正面から見えないだけで、実は知られざるもう一つの物語であったり、見えづらくなっていた感情のようなものたちを抱えている。それらにスポットライトを当てることを一つの方法として、赤坂憲雄さんは東北の精神史を理解しようと試みている。
そして、同じような二つの側面を持つ物語を、私たちは岡山にも見た。吉備津彦と温羅の話のどちらが正しいかという話ではない。受け継がれてきた物語と、明かりがあまり当たってこなかった物語があるという二つの流れをくみとって、歴史や伝説を理解しようということが大切なのではないか。
最後に
物語だけでなく、どんなものにも二つの側面がある。光と影、というような言われ方を時にはするが、実は「影」はそれほど暗くなかったりする。単に歴史を理解しようとする者がその物語を「影」にしているのであって、最初からその部分は影ではなかったはずだ。見方ひとつでいくらでも歴史の解釈が変わってくるということがおもしろくもあり、恐ろしくもある。
この伝説・物語の見方は、今後の歴史学習において重要な視点を与えるだろう。ただ事実を暗記するのではなく、どのようにしてその出来事が起きたのか、表と裏には誰がいて、登場人物はどんな思惑を抱えていたのか。そんな多角的な側面から歴史を検証してみるおもしろさを知るきっかけに、伝説や物語はなるのかもしれない。
身近な物語である「桃太郎」から、今回はそのような視点が生まれた。
もしかすると、他の昔話も追いかけてみると、同じようなおもしろさを感じられるかもしれない。
ということで、桃太郎を通じた岡山の旅であった。物語を追いかけながらその土地を旅することは、その地をより深く知るきっかけになるだけでなく、自分たちの中にまた新たな価値観や視点を与えてくれる。ただ観光地に行って「ふーん」で終わるのではなく、せっかくだからその地を存分に楽しみ大ものだ。
また違う土地に行ったら、新たな伝説や物語をたどって旅をしてみたい。
次はどこへ行こうか。
2022.08.31
ShareKnowledge(けい)
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