評価されないという快感
コロナ下の2年半、社会システムが断続的に麻痺したり、世間の空気でものごとが動いていくようにも感じられる中で、どこか窮屈さを覚えていた人は少なくないんじゃないだろうか。
国や自治体の号令や、世間の空気から少しでも逸脱する人は、地域で変な噂をたてられたり、SNSで吊るされたり、といった具合に。一方でその逆サイドの側も、自分たちの信じる世界にいない人をSNSでディスってマウントをとる現象も度々目にする。
一人ひとりの自由の相互承認、そして社会のグレーゾーンがなくなっているような肌感覚。異質なもの同士の分断がなんだか加速してきている気がして、その要因の一つのキーワードは、「評価」なように思った。
他人からどう思われるか。組織や地域などの共同体の中でどう思われるか。SNSや世間でどう思われるか。他とくらべて自分はどうか。
人間、大なり小なり人にどう思われるかを気にしてしまう生き物でもある。(同時に、人は他人のことなんかそこまで気にしていなかったりもするのだけれど)
評価されたい気持ちは、モチベーションにもなりつつ、一部は不安とも根っこでつながっている。その怖れが大きくなりすぎると、こうありたいという心持ちや、自分なりの倫理観を手放してしまったりもする。時には何かを下に見たり、評価を下すことで、自分の存在意義を確認しようとする。
ムラ社会の評価と、都会的な評価
もともと田舎など小さなコミュニティの中では、ムラ社会と揶揄されるような、ある種の相互監視的な状態になりがちで、その閉塞感や寛容性の低さが若い世代を遠ざけてきたことは否めない。
その要因に、ご近所の目が気になって、とか、立派に見られなければならない、とか、その共同体や社会の中で下位にいたくない、といった周囲からの評価にかかる欲求が少なからずある。
人類はそこから逃れようと都市に向かったり、共同体から逃れようともするが、その先の世界は、個人(Individual)単位に分割された競争社会でもある。年収、売上、学歴、職業など、新たな評価のモノサシに囲まれ、孤独な中で不安と向き合う人も増える。
ある意味、その不安をかきたてて商品化するのが資本主義のメカニズムの一側面ともいえる。(もちろん利他的なメカニズムもあり、これらが人類を豊かにしてきたのも事実だ)
何でも買えて、サービス化され、時にサブスク化していく。暮らしの大部分が消費者化していくほど、自らつくるという営みは縮小し、同時に市場や消費者からの評価の比重が増していく。お金による交換と評価はある程度セット(評価=品物の価格を決める)だし、それ自体はフェアでもある。
評価経済、アテンションエコノミーの加速
そしてインターネットやSNS発明以後、評価という行為は一層個人の手に届くようになってきて、匿名でも表現しやすくなったり、個人が圧倒的なインフルエンサーにもなり得る時代がやってきた。
誰でも商品の評価者になれて、企業も消費者の評価をもとに舵取りをし、消費者も誰かの評価をもとに購買する。
食べログの点数。インスタやTwitter。フォロワー数とかいいね数とか投稿への反応。これらは評価経済、アテンションエコノミー、とも呼ばれる。果たして個人の自由意志か、プラットフォームのアルゴリズムかはわからないけれど。
(そしてWeb3への期待と同時に、ブロックチェーンを基盤とした新たな評価経済も生まれ得るかもしれない)
Stay with Community
さて、今回は社会システムとか、評価という営み自体を批判しようというつもりも毛頭ない。健全な評価や競争と向き合うことは、人生を豊かにしてくれる。
だけど、それだけが人生の大部分を占めるって、ぶっちゃけしんどくない?って話だ。鬼滅よろしく、生殺与奪の権を他人やシステムに握らせてやいないか?
旧来の共同体の中で、ムラ社会的な表情が強まると、評価する・されるの色合いが濃くなっていく。そこから離脱して"社会"と"個人"の関係となっても、新たな評価のモノサシと、より大きな世間の空気に巻き込まれていく。
こんな状況が、昨今の閉塞感を醸し出しているように思う。
その一方で、コミュニティの存在がポジティブに働くシーンも、この2年間で数多く目撃した。
もともと、震災など大きな危機の際にコミュニティの底力が発揮されるのは周知の事実だ。今夏は五城目町で豪雨災害があり、復興に向けた共助のパワーをひしひしと感じた。コロナ下においては、その力がネガティブに働いていったことも否めないが、それでも希望はある。
ほんの一例として、保育園や学校などの社会システムが断続的に止まり、"Stay Home"が叫ばれる中。小さな共同体ともいえる"家族"をちょっとだけ拡張し、複数人からなる"拡張家族"のような形で、子どもを見守りあったりする環境がつくられたり。"Stay with Community"がセーフティーネットとなり、さらには楽しさを生み出す場にもなっていく。
そこでは、社会システムや世間の評価との、一定の距離が存在している。コミュニティの文化や倫理に則って、世の中のルールから逸脱する余白、いわばローカルルールみたいなもの。グレーゾーン。あそびを持たせる。あとは良識の範囲でうまくやってね、みたいな。
評価から逸脱する、ということ
前に、コミュニティとかコモンズなるものの面白さは、社会システムとか、国家や行政区といった機構とか、世間やSNSの評判とか、そういう類のものからはみ出ていることなんじゃないか、と書いた。
拡大、成長し続けなければならない。価値を生み出し続けなければならない。フォロワーや会員数は多くなきゃいけない。熱狂し、熱狂させ続けないといけない。お金とリターンという等価交換じゃないといけない。
マクロにみたらいつのまにか乗っかってしまっているのかもしれない、大きなシステムに組み込まれたアルゴリズムからはみ出してみる。
「評価から逸脱する」ということ。
客観的にどう評価されるか、はたまた、誰かを評価する、という目線はそっと置いておいて。自分の主観、自分たちの共同主観として、「よい」「楽しい」「クール」と思えるかどうかというモノサシで、人生や暮らしを自治していく。小さな世界、小さな生態系を自分たちでつくるということは、とてもエキサイティングな営みだ。
そこでは、ムラ社会的な評価を手放し、お互いの自由を承認しあう関係性や、共に創る関係性を育んでいけるかも肝になってくるだろう。
個人としてできることもある。例えば、世の中から全く評価されなさそうな営みに身を投じてみる、なんてのはどうだろう?
(以前に書いた4象限の左下の「遊び」の領域)
人間が生きていく上で、はなから意味なんて必要ないこともある。子どもの遊びは、「役に立たない」×「意味がない」行為の典型かもしれないけれど、純粋に楽しかったり没頭できるものだったりもして、そこから遊び仲間ができていったり、自然と何かが生まれてきたりもする。
一人ひとりの生き方、そして共同体のアップデートの鍵は、「評価されないという快感」にあるんじゃないだろうか?
執筆:丑田俊輔(シェアビレッジ代表)
「コモンズの再発明」シリーズの過去記事も是非ご覧ください!
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