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コミュニティにおけるダサさと地味さの美学

田舎でのんびり暮らす中で、「ダサさ」と「地味さ」という視点からコミュニティを眺めてみたら結構面白かったので、一気に書き連ねてみた。

執筆:丑田俊輔(シェアビレッジ代表)


カッコよく魅せたい。という気持ちはたぶん誰にでもある。かの宇髄天元も「ド派手にいくぜ」って言ってる。

うちのコミュニティ、めちゃ盛り上がってるぜ。
うちのまち、めちゃオシャレな店たくさんあるぜ。
うちの会社、めちゃ皆んなイキイキ働いてるぜ。

例えば、自分が住んでいるまちを案内する時。平日の朝市よりも、日曜市の方が賑わってるし見せたいなーとか。秋から冬にかけてのあわいの時期は、紅葉も落ちてるしかといって雪もないしなーとか。なるべく色んな人が働いている日にオフィス案内したいなーとか。

その気持ちはとても正直なものだし、ゲストをもてなすという視点や、戦略的なPRの視点でも大事だ。

コミュニティを捉える3つのキーワード

一方で、コミュニティや暮らしという視点では、その鼻息の荒さを落ち着かせることも必要だと思ったりもする。キーワードは三つ。

1. ハレとケ

一つ目は、「ハレとケ」。

暮らしの中には、日常と非日常が入り混じっている。日常だけだとマンネリ化したり疲れる時もあって、時には集落の皆でお祭りをしたり、たまには一揆したりもする(笑)のが人類の知恵でもある。これはコミュニティが共同体感覚を持ち続ける仕掛けでもある。

日常は地味かもしれないけれど、非日常の方が豊かかというとそういうわけでもない。ありのままの日常を楽しめているか?という問いかけは、ときどき自分に投げかけていきたいものだ。(もしくは、日常をさらに楽しくするには?という問いも)

「ケ」を楽しむ人が多いまちはどこか魅力的だ。その土台あってこそ「ハレ」の日は、めちゃ盛り上がる。

余談だが、人(特に東北とか)は往々にして、めちゃ幸せです!とか、豊かです!みたいには口にしないけれど、実際はそれなりに楽しく生きていたりもする。

2. ゲストとホスト

二つ目は、「ゲストとホスト」。

主と客の境目が溶けているのが、コミュニティの特徴であり面白さだ。例えば、村長も町内会長もリスペクトや役割はあれど、生活者としてはフラットであり、住民はお客様ではない。昔からそのコミュニティにいるから偉いわけでもない。

旅人も、移住者も、関係人口も、ゲストとホストの垣根を越えていけると、新たな世界が拓けてくるはずだ。

そう考えると、無理に誇張して大きく見せ続けなくてもよいし、その鎧もしくは肉じゅばんはそのうちはがれる。コミュニティは日常やプロセスを共にするからこそ、背伸びし続けているときっとしんどい、というかバレる。ダサさも弱さも見せてしまおう。
(一方で、田舎ではご近所に見栄を張る文化もあるが、もう少し脱力してもいいように思ったりする)

コミュニティに訪れる側も、非日常の瞬間を切り取って理想郷だと思ったとして、実際の日常とのギャップで、こんなはずじゃなかった!とか、なにもしてくれない!とか、受け入れてもらえない!とか、消費者根性丸出しモードにはならないようにしたいものだ。

3. 主観と客観

三つ目は、「主観と客観」。
人によって、シーンによって、居心地の良い空間や好きなデザイン、美しいと思うものは違う。

銀座のブランド街をクールと思う脳みそで、ど田舎の商店街を歩いたら。古くからある雑然とした古本屋や、空き家を手入れしてつくった寄合所は、目にとまらないかもしれない。

ヨーロッパの統一された街並みを素敵と思う脳みそで、日本の農村を歩いたら。錆びたトタン屋根、古くからある家と近代的な住宅の混在は、全然美しくないとうつるかもしれない。

デザインスクールで学んだ脳みそで、朝市のおばちゃんが手書きで書いたポップを見たら。もっとイラレでデザインした方がカッコいいのにと思うかもしれない。

誰かにとって心地よいと思う空間は、誰かによってはダサいと感じるかもしれない。けれど、それでいいのだ。(小綺麗にデザインされたパッケージやお店はばーちゃんには刺さらなかったり、バキバキに洗練されたオフィスはおっちゃんには寛ぎづらいかもしれない)

美意識は大事だ。でも、ダサいとかカッコいいとかは、自分の主観、もしくはコミュニティの共同主観、くらいにとらえておけばいい。

多くの人がカッコいい!と思うものは、もしかしたら、マーケティングでつくり出されたオシャレかもしれない。(そういうのは、オシャレっぽい、という表現が正しいし、飽きやすい)

「侘び寂び」という日本の美意識にも通じるものがあると思う。

システムからはみ出たもの

ダサさと地味さの美学、みたいな話になってきた。

そんな眼差しをもってコミュニティとかコモンズなるものの何が面白いかって考えてみると、社会システムとか、国家や行政区といった機構とか、世間やSNSの評判とか、そういう類のものからはみ出ていることなんじゃないだろうか。完全にシステム化されず、秩序と混沌が入り混じる。ある意味、システムからみたらバグ的でもある。

拡大、成長し続けなければならない。
価値を生み出し続けなければならない。
フォロワーや会員数は多くなきゃいけない。
熱狂し、熱狂させ続けないといけない。
お金とリターンという等価交換じゃないといけない。

マクロにみたらいつのまにか乗っかってしまっているのかもしれない、大きなシステムに組み込まれたアルゴリズムからはみ出してみてもいいのだ。五条悟の領域展開のごとく。

「生きる世界」を憑依させよ

だいぶ前に、哲学者の内山節さんと長野の山奥でご一緒した時、「地図上の世界」と「生きる世界」、という言葉を伺った。

大まかに言うと、前者はマクロな話で、後者はミクロな話=自分たちが生活・暮らしたりする身近な世界。マクロが少子高齢化だからといって、ミクロではみんな悲壮感ただよう暮らしをしているわけではない。生きる世界の目線から、各地の日常と非日常を眺めたり味わえるようになると、旅も暮らしも深みが出てくる。

恐山のイタコのごとく、あるいはシャーマンキングのごとく、それぞれの場所やコミュニティの美を自分に憑依させてみる、みたいな感じだろうか。

最後に、個人的な「生きる世界」の味わい方、雪国編。

雪深い冬は、土の下でエネルギーが殖ゆ(ふゆ)る。そして春になると膨れ上がったエネルギーが大地から張り出す(はる)。寒い冬に食べるだまこ鍋の美味さは格別だし、春の始まりにふきのとうがニョキニョキ出てくる時のテンションは爆上がりだ。

雪解け水は山河を豊かにし、川・湖・海に美味しい魚も育んでくれる。氷上ワカサギ釣りに没頭しながら、春からの渓流釣りシーズンに向けてイメトレも欠かせない。

そして雪の季節、子どもたちは遊具なんてなくても延々と外で遊び続けるので親も楽(除雪はエクササイズ)

ちょっとありかも、と思ってきません?笑


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