狩猟採集民から学ぶ「育てない」という感覚
「育てる」「所有する」「管理する」「生産性を上げる」「定住する」
あたりまえじゃん!と我々が思っている概念の結構な多くは、農耕社会がはじまってから定着してきた。
都市化や資本主義の発展、教育システムも、そのパラダイムと地続きにある。
農耕的な概念や営み(「農耕OS」と呼んでみる)は、生存のための基盤をつくり、社会を安定させ、様々なストックを生み出してきた。
同時に、それが故に、集団内のヒエラルキーが生まれたり、所有による争いが生まれたり、画一的な評価のものさしが生まれたり、腰痛とか生活習慣病が生まれたり、ブルシットジョブ(クソどうでもいい仕事)と呼ばれるものが生まれたりした・・・ともいえそうだ。
そんなふうに昨今の数多ある社会問題を眺めてみると、農耕OSのままでいては解けないことも増えつつあるように思う。
そこで注目してみたいのは、狩猟採集民の眼差し、すなわち「狩猟採集OS」だ。
狩猟と農耕を併せ持つ秋田人
米どころ秋田に住んでいると、表層的にはビバ農耕民族!なのだけれど、「マタギ」の発祥の地でもあるように、暮らしやその精神性の中には狩猟採集と農耕がいまでも共存している。
山菜やきのこを採りにいく、岩魚やワカサギを釣りにいく、クマをいただく。
普段は農耕的に暮らしていたとしても、こうした営みに眠っていた血がふつふつと沸き立つ秋田人たち。
自分自身、源流域の渓流で魚たちと戯れていると、心臓がドクドクする感覚や、人間個人という認識を手放して野生へと溶け出していく感覚が呼び覚まされてくる。
日常の安心感ある暮らしでセロトニンが流れ出ている時と比べて、山に入ると、ドーパミンがどばどば分泌されている感じ。
マタギ的なもの
マタギの師匠に山に連れて行ってもらうと、とにかく学ぶことが多い。
クマは所有権や自治体の境界をいくらでも超えていくので、彼らにとって森や山は誰かの所有物ではない。
自然から「授かった」ものは、マタギ勘定といって立場によらず皆に共有する。
共同体の中での掟や言語や儀式を持ち、自然の再生力以上に過剰にとることはしないよう自らを律する。
先日フィンランドのラップランド地方を旅していたときにも、地元の人達にこの感覚があった。
フィンランドには自然享受権というものがあって、誰でも森にアクセスできる。森の中で自由にベリーを採れるけど、森と持ち主に対してリスペクトを払って、再生できる量しか採らないようにする。
そして、自分たちの暮らす場所にある湖や山には精霊を見立て、そこからおすそ分けいただいたり、湖畔にサウナ小屋を建てて一緒に遊んだり。
自然界をコモンズ(共有地)として捉えていて、地球の誰もが享受できるけど誰も所有してないみたいな感覚。あるものを活かしていく感覚。
こうした見方は、農耕OS、ビジネス的な脳みそからはなかなか出てきづらいのではないだろうか。
「育てる」を手放してみる
農耕OSでは、自然界に人間が手を入れていくことで、暮らしを豊かにしていこうとしてきた。
「里山」「里海」という言葉もこうした試行錯誤から育まれ、人と自然がより良い関係を結ぶことで持続可能性と美しさを保ってきた。
(ちなみに、北東北の縄文時代の研究では、当時から近くの森にクリやウルシを植えて利用しており、農耕的な営みは相当昔から存在したと考えられている)
一方で、人間中心の力が優位になっていくほどに、森林の過剰利用をはじめ、生態系のバランスを崩してしまうことは歴史的に幾度もあった。
近年の日本全国杉だらけの里山は、画一的な木材を栽培して管理するという考え方と、明治以降に所有権を個人に分割していったことも相まって、経済合理性のもと放置された結果さまざまな問題を生んでしまっている。
あえて大雑把に言うと、農耕OSは「育てる」ことに重きを置き、狩猟採集OSは「育てない」。
「育てる」と「育てない」の間
言葉を変えると、「人工的に手を入れてととのえること」と「自然の持つ生命力や自律性に委ねること」。
どちらがいいかというよりは、その間にこそ道がある。
(自然に全てを委ねてしまっては、弱肉強食の世界となるかもしれないし、獲物がとれないと餓死してしまうかもしれない)
その上で、今の時代、「育てない」側へとボリュームをちょっと傾けてみることをおすすめしたい。
そのイメージを、3つのステップ(循環)で整理してみた。
あるものを活かして、暮らしを楽しくしていく
(少しだけ手を入れてととのえたりもする。ただし、全てを管理しすぎない)自然の持つ生命力が躍動し、おのずから再生されていく
(再生されるのは、自然の生態系や、人の自律性・つながりまでを含む)再生されたものを活かし、仲間と共有し、さらに暮らしを楽しくしていく
(暮らしを共有化=コモニングしていく)
1.あるもの(ストック)を活かす
こうした視点から世の中を見渡すと、農耕時代を経て蓄積されてきた、たくさんのストックがあることに気づく。
例えば、杉だらけの森林、商店街の空きビル、空き家や耕作放棄地、廃棄される資源。
こうしたストック(あるもの)をハント(狩猟採集)して、活かしてみよう。
つながり(関係性の資本)さえあれば、大きな資金力(金融資本)がなくとも活かせるものが見つかるかもしれない。
すぐにできる第一歩として、ありあわせの食材やとってきた食材で料理をつくってみることもオススメだ。クックパッドでレシピ通りの食材をスーパーで買ってきて、レシピ通りにつくることに慣れていると、はじめは難しかったりする。
そして、これらを活かすうえで、デジタルテクノロジーの存在も大きい。
例えば「デジタルファブリケーション」の普及によって、眼の前にある森の木を家具や住宅にすることのハードルも下がってきた。
「生成AI」をはじめ質量のないデジタルな道具は、次第に限界費用がゼロに近づいていくことで、狩猟採集的に生きるための新たな"マタギ道具"となっていくだろう。
関連キーワード:コンヴィヴィアリティのための道具
2.おのずから再生されていく
では、あるものを活かすことで「再生されていく」とはどういうことか?
例えば林業。
従来の画一的な栽培型林業と対比して、「森林業」と呼ばれる領域がある。
植林されたスギやトウヒを間伐し、再度の植林でなく、その余白に自然と生えてくる多様な植生を活かしていこうというスタイルだ。
中欧エリアでは森林業を軸に、住宅や観光が連動した森林産業クラスターが各地で生まれている。
半径30kmの資源を活かして建設中のデジファブ集落「森山ビレッジ」も、その実践からインスピレーションを受けている。
漁業の世界では、藻場の再生による里海の多様性を再生するスタートアップが活躍していたり。
農業の世界では、環境再生型農業(スタイルはさまざま)が世界各地で試みられていたり。
教育の世界でも、画一的なカリキュラムや「教える」スタイルから、一緒に遊びながら学ぶ=「ジェネレーター」(学びと活動の生成)への偏移が起きはじめている。
再生されていく森や海や学習環境は、「地域のコモンズ」、ひいては「地球のコモンズ」として、多面的なインパクトを生み出していくだろう。
先日のWIREDでは、こうした挑戦者たちを「リジェネラティブ・カンパニー」として特集している。
(僭越だが、シェアビレッジも掲載いただいた)
3.共有化(コモニング)する
狩猟採集OSでは、「所有する」という概念も手放していく。
あるものや再生されたものを活かしてクリエイションしたものを「共有化(コモニング)する」ことも、暮らしを楽しむ上でおすすめしたい。
狩猟採集に脳みそを切り替えて、身の回りのものを見つめ直してみよう。
住まいも、遊び場も、温泉も、学び場も、市場も、森も、海も。意外とどんなものでも共有できるかもしれない。
個人の所有を越えて、誰かと共有して楽しむこと。
定住を越えて、新たなコミュニティでコモンズを自治していくこと。
さまざまなコミュニティを行き来する(ホッピングする)こと。
“みんなで暮らしをつくる”は、人類最高の遊びなのだ。
Share Villageは、そのための「道具」と「学び場」を皆でつくっている。
さいごに、コミュニティの形・コモンズの自治のあり方は、農耕OSと狩猟採集OSでは異なる部分がありそうだ。このあたりは、以前のnoteで書いた「競合性」と「排他性」の視点も参考にしつつ、追って深めていきたい。
それぞれの楽しさを味わって見ながら、自分にとって心地よい組み合わせを見つけていけばいい。
狩猟採集民の世界へ。妖怪のいる森へ。ドキドキしながら飛び込んでみよう。
執筆:丑田俊輔(シェアビレッジ代表)
「コモンズの再発明」シリーズの過去記事も是非ご覧ください!