孫が書く祖父(髙橋菊男)の手記 2.福島での生活
(1).小学生時代
1930年(昭和5年)当時は和服を着用して通学する児童が多かった。この写真で見ても、児童数61人のうち和服着用が約半数ほど。写真左端が校長の柏村幸太郎先生。右端が担任の山岸確蔵先生。
祖父の左には斉藤博さんという人が写っており、祖父曰く、小学校6年間、商業学校の5年間、福島高商の2年半(第2外語でもドイツ語クラスで一緒だったそう)と13年半の間、同学高、同じクラスだったと語っている。
※これは私の推測だが、祖父の語る斉藤博さんとは福島市松川町で自動車整備会社を立ち上げた方ではないだろうか。
(2).ボーイスカウト夏季訓練
1935年8月 祖父小学6年 福島県いわき市久ノ浜町にて
祖父の記憶に小学生時代のボーイスカウトの記憶が鮮明だったそうで、比較的長い回顧録が残されている。
以下、祖父の記録より
久ノ浜に着くと早速、海岸の松林の間にボーイスカウトで培った技術を使いテントを張る。一つのテントに5人が泊まる。夜になっても非日常なので感覚が冴え眠れず、雑談しているうちに激しい雨になる。雨漏りがしたり、地面から雨水が流れ込んできたりで、1日目は寝るどころではなかった。
翌日、それでも飯盒炊爨で朝食を済ませると、早々に近くの久ノ浜小学校に避難することとなり、訓練期間中はそこで過ごすこととなった。
ボーイスカウトの思い出の反面、5年後の商業高校での修学旅行は楽しかったことがなかったそうで、祖父自ら「楽しくなかった」、伊勢神宮や乃木神 社(当時、日露戦争後で旅順の乃木将軍を祀っていた神社)に行ったが、寺社仏閣で面白くなかったと述べている。
ちなみに、1936年〜1941年の5年の間に祖父はそろばん検定3級まで取得している。
(3).剣道に明け暮れる
福商4学年の春期休暇中の合宿。5年生(最高学年)はすでに卒業しているので、我々が最高学年で頭を抑えるものがおらず大威張り。ここに写っているのは2、3、4年生。この年の春に卒業した部員は2名。
最後列左から3人目がこの春に卒業した斉藤千。当時、まだ就職先が決まらないとこぼしていた。
この年、大日本武徳会により剣道初段を允許される。
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ちなみに、この斉藤千という方、この写真から9年後に松川事件という戦後最大の冤罪事件にて無期懲役を言い渡されるが控訴し無罪となる。
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1941年に福島県立福島商業高校を卒業
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国立福島高等商業学校に入学
※全国7番目の官立高等商業学校として設立され、東北地方では唯一の官立高商であった。第二次世界大戦中に福島経済専門学校と改称された。現在の福島大学経済経営学類の前身である。
福島高商1学年の夏季休暇(7月上旬〜9月上旬)の7月上旬、茨城県東茨木郡内原町の満蒙青少年義勇軍内原訓練所で1週間の訓練を受けることになったのだが、訓練期間中、広い畑の草取りや興味のないことばかりやらされて、期間中何をしていたのか全く思い出せない。
写真後ろの建物はモンゴル遊牧民の移住住居である包(パオ)の形を採用した建物で、内部はドーナツ状に高床が貼ってあり、そこが夜間は寝台になっていた。