Dr.本田徹のひとりごと(1)2004.12.6
途上国ニッポン : 「おかあちゃん、虫がぼくの口から出てきたよ」
「ホームページのスタッフ日記に<Dr.本田のひとりごと>というコーナーを作ってあげるから、気軽に執筆してください」と、事務局長の山口さんから言われながら、はや3ヶ月(?)が過ぎてしまいました。コンピュータ上での書き込みの仕方まで懇切に教えてもらいながら、忘れてしまったり、病院の仕事に追われたりで、今まで放ったらかしになっていました。シェアのホームページをご覧くださっている皆さまにも申し訳なく思っていました。
今回、11月28日から12月5日まで、1年ぶりで東ティモールへ出張する機会を得まして、ようやくまとめてものを考える時間が生まれ、すこしは耳を澄ますに値する「ひとりごと」を、皆さまにお届けできるかな、という気分にもなってきました。やはり、現場に行くと元気を与えられるのは、いつものことですね。
今回の出張で私に求められていた任務は、東ティモール・シェアのプロジェクトで働くローカル・スタッフに、①小児やお母さんたちのよくかかる病気や、HIV/AIDSについて学んでもらうこと、②来年彼らが「南南交流・実習」で訪れる予定のカンボジアという国の歴史・社会や現地シェアの保健活動の紹介、そして、③みなで一緒になって保健教育のロールプレイ(寸劇)を作り、演じてみること、などでした。
トレーニングは全部で4日間に及びました。講義や小テストも行いましたが、対話あり歌あり踊りあり劇ありで、頭以上に皆がよく体を使ってくれたという印象がします。最初の日、アイス・ブレイキング(参加者の気持ちをほぐす)の意味もあって、各人に子どもの頃かかった病気と、それにまつわる両親の思い出話を語ってもらいました。それぞれ面白かったのですが、私自身は5歳前後にかかった2つの病気についての鮮烈な思い出話を提供しました。男性の平均寿命が55歳余りの東ティモールでは、1947年生まれの私のような人間は、もうすっかりカトゥアス(お爺さん)の部類で、自分の幼年時代のことを語るのはまるっきり「化石のつぶやき」に等しい
のですが、とは言え、半世紀前にはわが祖国ニッポンだって偉そうなことを言えるほど「先進国」ではなく、この国「ティモール・ロロサエ」(日の昇る国ティモール)と同じか、それよりももっと大変な保健状況にあったことを、彼らに知ってほしかったのです。
私の紹介した思い出の一つは、回虫を口から吐き出したというエピソードです。ある日、急に気持ちが悪くなって、玄関のたたきのところに突然吐いてしまったのですが、なんと吐物の中に大きな虫が2-3匹いて元気に動いているではありませんか。私はすぐ大声を出して母に知らせました。「お母(かあ)ちゃん、虫がぼくの口から出てきたよ。」 それは回虫でした。私はすぐ近くの小児科の先生のところへ連れていかれ、多分、当時の駆虫薬の代表だったサントニンを飲まされ、お尻からもたくさん虫を出した記憶があります。この「虫騒動」はこれで一件落着だったのですが、もう一つの方は悲劇的な結末でした。
ほとんど同じころ、私は通っていた幼稚園から麻疹(はしか)をもらってしまい、華々しく発疹と熱が出て、それでも1週間くらいで元気になったようです。しかし、この「はしか」を、私は当時生後6ヶ月くらいだった弟の元(げん)に移してしまったのです。元の方は、これがもとで肺炎を併発してしまい、やはり近くの医者に、当時珍しかったペニシリンの注射などをしてもらったそうですが、薬効なく、死んでしまいました。私にとってショックだったのは、両親、とくに、父親が文机に両肘をついて、オイオイ男泣きしている後姿でした。当時わずか5歳の子どもながらに、激しく揺れている父の背中を見て、「自分が悪いから、元が死に、お父ちゃんもお母ちゃんも泣いている」と思ったのです。もとより、5歳くらいでは、死ということの意味すら十分理解・把握できなかったはずですが、動かなくなり、死装束にくるまれた弟を見て、「これは取り返しのつかない事態になっている」、ということくらいは察知したのでしょう。この、5歳児にしては風変わりかもしれない、一種の「罪の意識」が、私をその後、小学校の高学年になるまで、引っ込み思案で、内向的な子どもにしていたのかもしれません。
麻疹については、さらに25年もたってから、青年海外協力隊で派遣されたチュニジアで、乳幼児の間での恐ろしい流行と合併症を体験しました。回虫症のことは、次回の保健教育・ロールプレイの項で更にお話することにします。