ぼくとFUKAIPRODUCE羽衣。
(この記事は、7月21日に勢いで書いてるので、誤字脱字、読みにくい箇所があると思います。すみません。)
2024年7月21日、劇団FUKAIPRODUCE羽衣から公式に解散の発表があった。
ぼくが振付家として生活ができているのは、FUKAIPRODUCE羽衣がなかったらあり得なかったし、のべ15年も舞台表現に関わっていなかったと思います。
自分は劇団員じゃないけど、長く一緒に並走させてもらって、成長させてもらった立場です。
解散に至る経緯も知ってはいるけど、そこには言及しない範囲で、かなり長文になるので、自分の思いをここに書かせていただきます。
羽衣と出会って振付を始める。
2009年12月、ぼくは東京都世田谷区にある夜間美術大学の一年生だった。
「この人、エンゲキのビジュツカの人で、人手が足りないから、セイ、手伝ってきなよ。」
研究室助手の方に紹介された人は、朝倉摂アトリエで働いている舞台美術家の池田那緒美さんで、要するに、池田さんは美術製作をされていて、ペンキを塗る人手が足りないから手伝ってほしいということだった。
はじめて劇場の裏口を通る。
三軒茶屋のシアタートラムの地下の稽古場。
薄暗くて、すごく緊張しながら重い観音開きのドアを開けた。
白髪の大きな老人が横になって寝てた。
初期の羽衣によく出演されていた俳優の藤一平さんだった。
高橋くんが、演出席の隣に案内してくれた。
「座って座って」って今も当時も変わらないぬぼっとしたあの口調で優しく。
「これ飲んでいいからね」ってファンタオレンジを紙コップに注いでくれた。はじめての人がいっぱいいて、緊張してたぼくは軽く断ってしまった。
(のちに稽古を見たら2リットルのペットボトルが小道具だと知る。中身のジュースをはけたかったらしい。)
ぼくは演出家がどういう仕事をする職種なのかわかってなかったけど、隣にいたすごい切れ目の白い肌をした人が演出家だった。
糸井さんだった。
今はふくよかで穏やかな雰囲気を纏っているけど、当時は細くて、艶々の長髪の綺麗な人だった。
地声も高くて、最初、女性かと思った。
糸井さんは、書き下ろした台本を出演者に手渡していた。
なぜかわからないけど、当時の羽衣の台本はすべて、ルーズリーフに手書きで、糸井さんが一字一字をフォントデザインしてるかのようなすごく芸術性の高い台本だった。
ぼくはその台本を見せてもらって面食らった。
明らかに1ページ描くのに相当な時間がかかっている。
もはや怨念のようなものを感じる。
創作に演劇の魂をみた気がする。
(心なしか糸井さんの目は血走っていたかもしれない。)
順子さんとの出会いも衝撃的だった。
「初めまして!深井順子です。」
垢抜けた明瞭なトーンで純粋な眼差しでまっすぐ見つめられていた。
ぼくは、上京したての田舎者で、ましてや東京の立派な劇場の稽古場。
大人の人と喋るの慣れてなかったので、俯きがちで挨拶をした。
ふと目線を上げると、
深井さんの足には包帯が、ぐるぐる巻きになっていて、松葉杖をついていた。
(稽古で怪我をしてたらしい。)
ぼくの羽衣との出会いは、目が血走った作家と、足を折れた主宰、やたらジュースを勧てくる劇団員に、横たわった白髪の大男という。
これ以上ないインパクトが演劇の劇団というものの第一印象になってしまった。
当時稽古をしてたのは、「あのひとたちのリサイタル」という作品で今の羽衣メンバーだと、日髙さん、鯉和さん、高橋さん、ユスさん、準レギュラー的立ち位置の伊藤昌子さん、藤一平さんもいて、みんなの先輩、ぶ先輩こと加藤靖久さん、マームとジプシーの召田実子さん、てがみ座の石村みかさん、順子さんは3週間で骨を完治させて、糸井さんも出演してた。
ペンキ塗りのお手伝いは、糸井さんの書いた美術下絵に沿って、色を塗っていく。1畳サイズの段ボール72枚あった。
当時の糸井さんの仕事の量は半端なかった。
作(台本は手書き)、演出、振付、美術(手書き)、音楽、出演。
全部、ハイクオリティでこなしていた。
初めて見る演劇の稽古場、クリエイションを目の前にして、芸術家・演劇人ってこういう人たちのことを言うんだって、圧倒された。
19歳のぼくは、何者かにはなりたかったけど、どうすれば何者かになれるかわからなかったから、苦しんでいて、
そんな中で、舞台「あのひとたちのリサイタル」は、舞台とはなんたるか、役者とはなんたるかは、全くわかんなかったけど、人間のエネルギーとはこういうものだって、衝撃を受けた。
ただ、ただ、ほと走る人間たちが確実に舞台上にいた。
その衝撃は今でも忘れてない。
忘れられないから、未だにその陽炎を追い続けている。
その衝動につき動かされて、ぼくは演劇という舞台表現にのめり込んだ。
実際、その後の学生生活は舞台作品を年間200本みたし、大学の課題も併せて、年間70本くらいの作品に関わった。
羽衣の制作チームだった大石丈太郎さんには、飲みに連れて行ってもらった時に、「そのペースで活動していけば5年後、何者かにはなれるよ」って言ってもらった。
すごく嬉しかった。
その言葉を頼りに頑張ってたら、確かに25歳の時にバイトを辞めた。
自分が表現活動を続けたのは、まごうことなく羽衣のおかげだ。
ぼくの傾向が、身体表現に傾いていた時に、糸井さんからご飯のお誘いのメールをいただいた。
新宿の中華屋さんで、羽衣の新作の振付を担当して欲しいとお願いされた。
当時ぼくが21歳で、たぶん糸井さんが32歳くらい。
糸井さんの生活はかなりカツカツだったと思うけど一食奢ってくれた。
振付のギャラは1500円だった。
それでもめちゃくちゃ嬉しかった。
自分がやってた変な踊りが必要とされる場所があるんだって思えて、稽古場への2往復するだけでぶっ飛ぶ1500円で「耳のトンネル」の振付を担当した。
本当に純粋な気持ちで一生懸命、振付を創った。
大好きな羽衣の表現に失礼のないように。
幸せなことに、公演は素晴らしいできだった。
いい作品が産み落とされる感覚、幸福感が客席に現れる様を自分の肌で実感できた。
作品の評判は動員に反映されていき、どんどんお客さんが増えていった。
(当時は劇場法による劇場規制がなく、最終的にこまばアゴラ劇場(60席)で1ステージ120人のお客さんがいるという意味のわからない盛況具合だった。)
そんな幸福な客席を味わせてもらったFUKAIPRODUCE羽衣公演「耳のトンネル」はCoRich舞台芸術まつり!2012春のグランプリを受賞した。
ぼくは大学を卒業したら、高校の美術の先生を目指そうかと考えてたけど、深井さんのお母さんがやっていた小料理屋の2階での打ち上げで、次の作品も一緒にやろうよってみんな言ってくれた。
深井さんのお母さん、加津子さんはよく褒めてくれた。
「糸井くんも天才だし、成ちゃん、あんたも天才。」
自分は、この人たちのために、振付を続けてみようかと決意した。
20代のキャリアは全部、羽衣。
これまでに羽衣に下ろしてきた振付はいっぱいある。
関わっていく中で、憧れの劇場に一緒に行けたり、みるみる動員が増えていく様を一緒に体験させてもらった。
お客さんが喜んでくれたりする様を団体と一緒に経験させてもらったことは振付家としても演劇に携わる身としても本当に幸せなことだった。
振り付けた曲数は100曲を超える。
この経験は羽衣以外での仕事でも、羽衣で培ったこととして、自分を救ってくれる場面はたくさんあった。
もちろん、心が折れそうになったタイミングはいっぱいある。
小劇場での活動はお金の巡りはほんとに悪い。
大学を卒業した後の、自分の経済活動となるバイトは強制執行の仕事をしていて、法的に人が住めなくなった家に裁判所の職員さんと赴き、荷物を全部出すということをしていた。
夜はダンスレッスンを受けて、昼間は執行官をやる日々。時給はいいもののメンタル的にかなり疲弊していた。
それでも羽衣の稽古は優先してたし、みんなもぼくのことを信用してくれていた。
2012年以前の糸井さんが振付を考えていた時代の曲もぼくが付け直すようになっていったことも、とても嬉しかった。
そんな矢先転機があって、知り合いからカンボジアでダンスを教える仕事をしないかと誘ってもらった。
羽衣の本公演はないタイミングだったこともあり、2015年のほとんどは、カンボジアで過ごしていた。
現地のカンボジア人にダンスを教えていたので、カンボジアの生活もやりがいもあって悪くないと感じていた。
移住を本格的に考えていた。
だけど、心の隅では、羽衣への未練もあった。
確かに羽衣の活動だけで、生活できるほど、お金の巡りがよいわけではないけど、それでも、羽衣のためにダンス頑張っているみたいなところもあったから、心はすごく揺れ動いていた。
年末に帰国した時に、糸井さんが池袋にあるボブ・ディランがコンセプトのバーに行きませんか?ってお誘いいただいた。
多分、ぼくが創作活動から離れようとしていることを察したのだと思う。
糸井さんはそういう勘が効く人だ。
そのバーで、羽衣の新作「イトイーランド」の振り付けを担当してほしいという話をされたのだけど、一番大きかったのは「成くん才能あるから、自分の作品作りなよ」って後押ししていただいたのだ。
糸井さんはあまり他人の後押しをするイメージが全くなかったけど、ぼくはすごく特別な感情に心動かされて、日本で活動することを決め、次の日には劇場を押さえた。
自分のユニットをひっそり立ち上げたのだった。
メンバーみんなのこと。
今や自分も振付家活動10年越えてる。
ぼくはそれまでダンスなんてやってきてなかったから、羽衣のためになるならって、必死にいろんなジャンルのダンスを練習した。
ぼくはずっと羽衣メンバーのみんなにリスペクトを持ってる。
振付として関わっていくようになって、自分はダンスなんかほとんどやったことなかったから、それまでの糸井さんの作品を全部、DVDで見させてもらって、羽衣っぽさとは何か?をめちゃくちゃ研究した。
だから自分の振付の作り方の根本は糸井さんだし、糸井さんは自分の振付作りの師匠だと思ってる。
ぼくが19歳のとき、メンバーみんな、ぼくのことをとても可愛がってくれた。
それまでぼく自身、大学もそんな友達と溶け込めてないし、自分のダンスもやり始めたばっかりで、全く納得のいくものを作れてなかった。
だから、一番年下の自分を可愛がってくれる羽衣はとても居心地が良かった。
和歌山の片田舎から出てきた自分にとっては、自分のことを認めてくれるとても優しいお兄さん、お姉さんができた。そんな感覚だった。
ぼくにとって深井さんはやっぱり特別な人だし、糸井さんは演劇の師匠のような方だ。
初めて舞台上で見た鯉和さんは美しすぎてドキドキしてた。いまでもドキドキする。
日髙アニキは東京にいた時は家が近くて手作りカレーを食べにきてくれて、恋バナとかも聞いてもらったし、澤田くんは帰り道一緒でバカ話いっぱいした。
ユスさんは何か言いたげでなんだけど素直になれない感じ僕と似てるなぁって勝手に思ってた。
高橋くんは僕が誰もいないと思って大声で歌ってたのを聴かれてたけど誰にも言わないでくれた。
新部さんには、よく怒られた。でも新部さんの言ってることはいつも正しいから、自分にとってはありがたかった。
おかもっちは自分の作品に出てもらった時に和歌山の実家にきてくれて、生態系がわかって安心したし、浅川さんとはよく休憩中に即興でコントしてた。
タジさんも、自分の作品に出てくれて、まっすぐな人で、人間らしくて愛おしい。
寛人はもうわけわからんけど、実は情熱的で、かっこいい人だと知ってる。自分の作品でインドネシア公演いったとき、危なっかしくてハラハラしたけど。
たかとは出会い方が自分の授業の教え子だけど、辛抱強い弟みたいだった。
制作の坂田さんは、打ち合わせと称して高円寺のラーメン屋に一緒にいって、自分の活動の相談をさせてもらった。
丈さんは初期の頃、すごく目をかけてくれて、前述した「頑張れば何者かになれるよ」は、自分にとってすごく支えになる言葉だった。
元メンバーの寺門敦子さんは、今でも僕のことこと心配してくれてる。
松本もとても才能あるひとだと思ってたから、松本の表現また見たいなって時々思う。
衣装のよしけんさん、かっこいいひとだった。広島での訃報を聞いた時は、すごい心にぽっかり空いたみたいになった。
深井さんのお母さんの加津子さんのFacebookの誕生日の通知。毎年来る。
もう亡くなって、8年になる。
だけど、SNSの自動的な通知の度に、無条件に、にこやかに、褒めてくださる独特の濁声が脳裏で再生される。
加津子さん、稽古中に、巨大なプラスチックの容器を3段も重ねて、漫画みたいな風呂敷におにぎり、唐揚げ、漬物の数々を詰めて稽古場に差し入れをいれてくれた。
あの味、今でも忘れられない。
羽衣の舞台、毎回客席で大笑いしている。
笑いどころのツボが一緒で、鯉和さんに「成ちゃんと加津子さんの笑いしかないところあったよ笑」って言われるのがとても嬉しかった。
今後、自分もどうするかわからない。
自分は表現活動もするけど、それは深井さんや糸井さんに認めてほしいと思っていたからだと思う。
大学の非常勤になったことも、自分の母校ということもあるけど、お二人が当時、多摩美の講師であったから、そのお手伝いができるならと思ったから。
自分の作品創作に羽衣メンバーに出てもらったりしてるのは、羽衣とはまた違う角度でこんな素敵な一面があるんだよってお客さんに知ってほしいって思ったから。
これまでの原動力は羽衣があったから、取り組めてた。
羽衣の解散が決まってから、自分は自分のやりたいこととできることを見つめて、振付家、パフォーミングアーティストとして何がやりたいか。
自分の人生では、いったい誰を幸せにしたいのか、ちょっとずつ自分と向き合う作業をしている。
自分は羽衣のためにダンスや身体の研究をしていたし、ダンサーじゃない人がストレスなく身体の表現ができる方法を突き詰めて勉強してきた。
羽衣のメンバーには、本当に素敵に舞台に立ってほしいって今でもずっと思っている。
羽衣の解散の話を聞いた時、鯉和さん、糸井さん、浅川さん、タジさん、おかもっち、たかとの前で、泣いた。泣きじゃくった。
もう19歳のいちばん年下じゃなくなったのに。
34歳のいい年の自分が、苦しくて、なにも言葉にできなかった。
解散の挨拶の順子さんの文章にもあるけど、加津子さんが亡くなってから、ぼくの中でも(もしかしたら羽衣のみんなの中でも)、誰のために表現したらいいのかわからなくなってた気がする。
糸井さんの挨拶にある「作品が陶芸で、劇場が釜で、観客が火」だという言葉。シニカルでウィットが効いている表現で最後まで糸井さんらしかった。
確かにぼくらは、かつて燃えていた。
だから、ぼくが最初に観たFUKAIPRODUCE羽衣の衝撃は、いわば陽炎なのだと思う。
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ぼくにとって羽衣と一緒に並走してきた15年は、今後の人生においてもとても大きな意味のある時間だと自覚しています。
ぼくに多くの作品の振付を担当させてくれてありがとうございました。
感謝しかないです。
ぼくは解散の経緯も知ってるし、当事者としての自覚もあるけど、みんなには、本当に幸せになってほしいと思っています。
あの頃の座組、一番の末っ子として素敵な兄、姉の皆さんの人生が豊かになっていくことを心から祈っています。
たぶん、お客さんにとっても、羽衣の作品は誰かの人生が豊かになっていく作品たちだったと思いますので。
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