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NPCになるか、ゲームプレイヤーになるか

最近、「ゲーム的な人生を送る」とはどういうことなのか、ずっと考えている狂人なのだが、今回はNPC(Non Player Character)のことについて、自分の思考を整理してみたい。

NPCは多くのゲームに存在する要素である。RPGに慣れたものであれば、村人のことを想起する人が多そうだ。話しかけるたびに同じセリフをつぶやいたり、あらぬ方向に進んだりする、例のあいつらである。最近のゲームは作り込まれているので、セリフのバリエーションはもっと豊富になっていると思うが。

僕は昔から、烏滸がましくもNPCみたいな存在にだけはなりたくないと思っていた。その感情は恐怖に近い。同じ街にずっととどまって、同じセリフを冒険者に話しかけ続ける。これはなかなかの狂気ではないか? 幼心に、この街の入り口で立って挨拶し続けているおっさんは、これでお金を稼いでいるのだろうか? などと考えたりしたものである。

しかし少し大人になってからよくよく考えてみると、NPCはなにもこうした村人に限らない。一見強くてかっこよくて恐ろしいボス役だって、その裏側に操作している人間がいなければ、それはNPCの一種――舞台装置――なのだ。ゾーマだろうがセフィロスだろうが、皆そうである。

これを現実に当てはめて考えてみると、NPCというのはつまるところ「ひとつの世界にしか経験していない存在」と言い表すことができる。ゲームプレイヤーというのは、ひとつのゲームしかやっていなかったとしても、少なくとも一つの現実世界は体験しているのだから、NPCではない。逆に言えば、特にゲームをやらない人であっても、ひとつの世界しか体験しておらず、他の世界を知覚しようともしなければ、その動きはきわめてゲーム内キャラクター的、NPC的ということになるのではないか。

NPC存在の何が悪いのかというと、その世界が盛り上がっているときは何も悪くない(ように見える)のだが、その世界が廃れてしまうと出口がなくなり、あたかも世界すべてが終わってしまうかのように感じてしまうところである。世界というのは認識の数だけ、あるいは関わる人のバリエーションの数だけ無数にあるはずだが、ひとつのとこでルーティンを回しているだけだとその世界のシステムに身体がめり込んでいき、やがて一体化し、世界の終わりとともに自らも崩落することになる。

ゲームプレイヤー的に生きるというのは、実はその響きとは相反して、そうした危険性を回避する保守的な生き方なのかもしれない。多分、その人のキャラクターとしてはNPCをとことん突き詰めたような、DQでいうならゾーマみたいなほうが魅力的なのかもしれないが、ひとつの世界に全ツッパして世界と一体化するようなリスキーなことができる人は稀だ。たとえ自分が魔王になれるとしても、いくつもの世界をそれぞれの世界のキャラクターに扮し、役割を演じるかのようにプレー(遊戯)する存在であったほうが気楽だし、好奇心も満たせる。

そうやっていくつもの世界を渡り歩いたゲームプレイヤーは、いつの日か自分も新しい世界を構築したいと望むようになり、ゲームマスター、ゲームクリエイターのような立ち位置になるかもしれない。そのとき、NPCのときとはまた違ったかたちで、その世界との一体化を図るようになるのかもしれない。僕はまだその境地に達したことがないのでよくわからないけども。


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