人生をゲーム化する100の方法(8):ルールをつくる
ゲームとはルールメイキングである
ゲームとは、多かれ少なかれルールメイキングのことである。ルールがどれぐらいうまく作られているかによって、そのゲームのおもしろさが変わってくる。
一見すると自由度が高いゲームでも、ルールがまったくないということはありえない。それが細かすぎるといわゆる「お使いゲー」になるし、ゆるすぎると「何をしたらいいのかわからない」という状態になるが、どのゲームにも通底してルールは存在する。そこには明文化されているものもあれば、デザインやシステムに組み込まれている暗黙的なものもある。
人生においても同じである。秀逸なルールを人生に課すことができたとき、その人の人生は輝き始める。逆にまったくルールのないカオスの状態では、すべてがランダム化されてしまい、おそらく社会的動物としての形を保つことすら難しくなってしまうだろう。
ということで、あらためて言うまでもなく私たちは、多かれ少なかれルールに縛られて生きている。だがここに落とし穴がある。
人生をゲーム化する上での要諦は、あくまでルールを「つくる」ことにあり、誰かに定められたルールに縛られることではない。もちろん、既存のルールを参考にすることはきわめて重要なことだけれども、それを消化したうえで、あくまで自分のルールを作らなければ、結局は他人のルールを生きてしまうようになる。
とはいえ、「作る」といってもオリジナルなものを0からつくる必要はまったくない。他人のルールを「編集」して、少しだけアレンジして自分のものにしてしまってもいいし、複数あるルールのうち「選択」することで、そのルールを自分のアイデンティティにしてしまうこともできる。大事なのは、そこに自分の納得があるかどうかなのだ。
ルールはいつだって書き換え可能である
以上のような話は、自分の生活リズムや職業選択といった、ある意味で人生のメインストリーム的な話で適用される話である。人生のなかには当然、他人がつくったルールを生きなければならないときもあるし、そもそもスポーツというのは誰かが集合知的につくったルールのかたまりだ。そういうものをエンジョイしたりサバイブしたりする技能は、当然生きているうえで求められる。なにせ人間は社会的動物なのだから。
集団的なルールの話をすると、これらは「共有されている」というところにもっともゲーム性が生じている。サッカーは、誰もがルールをある程度共有しているから成り立つ。社会におけるルールも、誰もがルールをある程度共有しているから成り立つ。そしてそのうえでパフォーマンスをいかに発揮できるかが求められる。こうしたルールは集合知から生まれているがゆえに、頑強性が高い。一見すると、不変のルールのようにすら思えてくる。
でもルールというのは、いつだって書き換え可能だ。サッカーだって細かい部分のルールはかなり変わっているし、社会においても同じである。自分にの中のルールだって、書き換えてしまっても構わない。そこを意識すればするほど、あなたはゲームマスターとしての才覚を表し始めるだろう。
キャラクターか、プレイヤーか、ゲームマスターか
こうして考えてみると、ゲーム的思考というのはキャラクター側の視点とプレイヤーとしての視点、そしてゲームマスター(制作者)側の視点の2つに大別できるのかもしれない。
キャラクターは没入を意味し、すでにあるゲームルールの中で楽しんだり、レベルアップうしあったりする。
プレイヤーはメタレベルが1つ上がっており、自分のやるゲームを選ぶことができる。1つのゲームの中に閉じこもるのではなく、自分のやりたいゲームをやる。当然、資金面だったりなんだりで手に入らないゲームも出てくるだろうが、そこにはある程度の自由がある。
ゲームマスター(制作者)は、既存のゲームアイデアをもとに自らのルールを作るものである。そして制作者を名乗る以上、それを他人に伝播するものとも言い換えられる。自分がより楽しいゲーム体験、すなわちルールを考えていき、それを他人に伝えることでさらに研磨する。このとき、ルールづくりはアートになる。