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人生をゲームにする方法(11):ギャンブル性をもたせる
私たちはランダム性に惹かれている
ランダム要素のないゲームは、ありていに言って停滞している。
世界中で楽しまれているゲーム(スポーツ含)のトップランカーたちの戦績を見ると、だいたい7割〜8割程度に収まっていることに気付かされる。これはゲームそのものに、ある程度のランダム性が付与されてるためだ。
逆にこれ以上数字が上にいくと、独占的な環境になり、環境が固着化する。観る前から勝敗が明らかなものが続くと、人は熱狂しない。たとえ可能性が低かったとしても、大番狂わせがあると信じているからこそ、そこに熱狂が生じる。
このことは、人気のある対戦ゲームがさまざまな手段を使って、勝敗にランダム性をもたせていることからも明らかである。たとえばポケモン。ポケモンはそもそもじゃんけん的な要素があるが、プレイヤーたちはなんとか勝率を高めるため、可能なかぎりじゃんけんが起きないようにメタゲームを読み切ろうとする。
それでも、技の命中率やクリティカル率にランダム性があるので、どんなに優れたパーティや技、努力値の構成をしていたとしても、うっかり負けてしまうことは常にありうる。その不確実性が観客を、そしてなによりプレイヤー自身を魅了させるのだ(そしてもちろん、発狂させたり激怒させたりもする)。
あるいは「ガチャ」と呼ばれるギミックがある。好きなキャラクターやカードが出るまで引き続けるというシステムは、かなり多くのゲームに搭載されているように思う。あまりにもガチャが楽しすぎて、もはやガチャをするためにゲームをしているみたいな本末転倒なことすら起こりうる。それぐらいガチャ、すなわちランダム性の持つ魅力は凄まじい。
スポーツはどうか。サッカーは、足という比較的不器用な身体パーツを用いて、22人の相互作用によって成り立つものであり、あらゆるところに偶発性が生まれている。その日の体調や加齢、スタジアムの雰囲気や天気など、試合を不確実性にするもので溢れているといってもいいだろう。
将棋のような完全情報ゲームですら、人間の思考や体調に移ろいがありうる以上、ランダム性が完全にないということはありえない。他のゲームに比べれば、勝率は一部にかなり偏るのかもしれないが(私はこの領域にうといので、この認識そのものが間違っているかもしれない)、それでも実力がある程度拮抗しているのであれば、勝負がどちらに転がるかわからなくなる。
パチンコやスロットなど、ザ・ギャンブルについてはもはや言及する必要がないだろう。もはや社会問題が起こるほどに、ランダム性というのは魅力で、私たちの根幹に関わっている。
「できるかどうかわからない」を増やす
私たちはランダム性にとらわれており、勝率が適切に配分されていると感じたとき、そこに没頭する傾向がある。毎回勝ってしまうものに人はワクワクしないが、ときに負けると意識したとき、そこにスリルが生まれてのめり込む。対戦型ゲームのデザイナーはそこをわかっているから、適切にランダム性をコントロールすることで、いつまでもプレイヤーを熱中させるように仕向けてくる。
人生のデザインを考えるとき、特に人生の何かにのめり込みたいと感じるとき、このランダム性を適切に配置することは非常に重要だ。
たとえば試験という「発明品」がここまで人を惹きつけるシステムになっているのは、合格と不合格の両方が存在するからである。当然、対策を完璧に行えば理論上は満点が取れるので、不完全ゲームとは異なるのだが、カバー範囲が広かったりしたり、属人的なトラブルが起こったりする可能性がある以上、完全に対策することは難しい。だからドキドキするし、突破したときの喜びも増える。
ゆえに自分がコントロール可能だと思える範囲、つまり合格確率が6〜7割程度だと思えるような試験を受けてみたりすると、それだけで少なくとも人生のある一部がある程度ゲーム化する。人間は、できるかどうかわからない状態で、もっともフローを経験する。
できるかどうかわからない、勝てるかどうかわからないというものの数を増やすことに、人生のゲーム化の鍵がひとつ眠っている。別にそれは大それたものでなくていい。日常のささやかなことでも構わない。本当にギャンブルに身を投じてしまうのは、ゲームを超えてさまざまなリスクをもたらし、やがてコントロール不能になるおそれがあるのでおすすめはしない。あくまで小さな世界(領域)のなかで、勝率がせいぜい4〜7割程度のものを増やしていく。これが重要なのだと思われる。