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労働し空想する/米津玄師『LOST CORNER』【ディスクレビュー】

米津玄師が4年ぶりにリリースした6thアルバム『LOST CORNER』が凄まじかった。その多くがタイアップ付きであり大きく世に知れた既発曲12曲とせめぎ合うような新曲8曲によって構成された全20曲の大ボリューム作だ。聴くまでは新鮮味という観点では軽く考えていたのだが、結論から言えば72分間、圧倒されっぱなしだった。

既発曲を美しく繋ぎつつ、新曲たちも負けじとギラギラ輝く。“サブスク時代のアルバム云々”という議論を無に帰してしまうのが本作の威力だ。外部からオーダーされた曲は多いが、過去作と比べて米津の人間味も剥き出しで、噛めば噛むほど血の味がする作品でもある。この凄まじさに繋がる本作の核を労働空想の観点から考えてみたい。


創造的労働

まず数曲聴いて「さすがに一生懸命すぎる」という妙な感想を思わず口にしてしまうほど、本作はその激烈な仕事量に目がいった。創造をめぐる手つきとでも言うのだろうか、頭も体もフル回転した痕跡が楽曲1つにもその並べ方においても感じ取れたのだ。世間的には言わずと知れたミュージシャンゆえ、それなりに悠々としたものを作ることもできるはず。しかし彼はそれを選ばない。

過去イチ獰猛なテンションでアルバムをこじ開けるM1「RED OUT」には音楽に託したい逃避的かつ破壊的な願望が表現されているように思う。それは誘爆するようにM2「KICK BACK」へ繋がる。「チェンソーマン」に触発され曲に表出した“無尽蔵な欲望”は続くM3「マルゲリータ」にも溢れる。アイナ・ジ・エンドとの混声で愛欲の高揚と音楽的快楽を結びつけたここまで3曲、表現物と本能的欲求を鮮やかに繋ぐ幕開けだ。


M4「POP SONG」とM5「死神」は《くだらねえ》と喚き嘆く謡曲のペア。だらっとした感触を継いだM6「毎日」と続くM7「LADY」は同じ缶コーヒーのCMソングであるのみならず、繰り返すことへの疲弊とありふれていくことへの愛着という揺らぎが相互に表現される。チルなムードを共有したM8「ゆめうつつ」(夜の報道番組のテーマ)、続くM9「さよーならまたいつか!」(朝ドラ主題歌)は夜から朝へと連なる流麗な構成だ。

滾る欲望をコントロールしながらも雑然とした日常へと順応する。繰り返す日々の先でそれでも人生を送っていく、、というのが前半9曲から連想される物語なのだが、これはまさに我々が社会と向き合って生活や労働を選んでいく足取りを模しているように思う。序盤の曲に特に目立つ、苛立ちめいたエッジーな歌唱も市井の人々に内在化した怒りを体現しているかのように響いてくる。

与えられたノルマをこなして、それなりに結果を出して。タスクがあって、毎回ギリギリになるにせよ、ちゃんと納期までに提出して。そんなふうに真面目に生きてきた気がする。で、そうやって生きていけばいくほど、真面目に生きていくことが一番だなと思う。自分の目的に対して純粋に真摯に生きていくという。でも、その真面目さみたいなものにも疲れ果てるときがあるというか。

音楽ナタリー「LADY」インタビュー

人間って、“状態”の連続じゃないですか。真面目な瞬間も、不真面目な瞬間もある。もっと混沌としていて、両極端なものが同居している。そこに一貫性を求めようとすると、人間の本質からどんどん離れていく。道徳的な規範を強い力で当てはめたりすることは、翻って人間性の否定になるんじゃないかという感じがするんです。

音楽ナタリー「LADY」インタビュー

こうした思考回路を持つ米津だからこそ、彼は怠惰さを受容しながらも、絶えず手を動かし続けるのだろう。”天の上のアーティスト様”としてではなく、スケジュールと時間に追われる一市民として、真面目に仕事と向き合い、時にキレながらも良い曲を作り続け、良い曲順を練っている。紛れもなく創造でありながら、同時にタフな労働でもある。そんな創造的労働の痕跡が本作における楽曲の“我々の歌”としての強度を高めている。

M10「とまれみよ」では《はい さよなら描いてた未来/この先誰も知らない》と前曲「さよーならまたいつか!」の軽やかな高揚感をブーストさせ、無鉄砲なエナジーをくれる。M11「LENS FRARE」では舞台上の自分と対話しながらアーティストという職業の苦しみを曝け出す。聴き手の気持ちを牽引しながら、同時に皮肉もぶちまけながら、“我々の歌”を作るという生業を刻みつけたことが本作の説得力に繋がっているのだろう。


空想が救う

何をもって”我々の歌“と思うのかは人それぞれだろうが、米津玄師は”あなたでいることの肯定“を歌い掛け続けている点に私はそれを強く思う。様々なジャンルのタイアップ曲が多く収められていながら、そこに統一感があるのはその聴き手へ呼び掛ける意志が貫かれているからだと思う。

嵐に怯えるわたしの前に
現れたのがあなたでよかった

M12「月を見ている」より

君が望むなら
それは強く応えてくれるのだ
今は全てに恐れるな
痛みを知るただ一人であれ

M13「M八十七」より

どれだけ生まれ変わろうとも
意味がないくらい
どこか導かれるように
あなたと出会いたい

M14「Pale Blue」より

オーダー元である作品をじっくり紐解くことで生まれた数々のタイアップ曲だが、その中に含まれた強い感情は当然のように我々を巻き込み、心を震わす。物語を要約したり、要素を散りばめるという器用なやり方でなく、愚直に作品と対峙することでしか生まれない記名性がある。この丁寧な仕事ぶりは音楽のみならず表現物全体から人間味が失われる未来への抵抗のようにも見えてくる。

音楽をつくることはまず喜びなので。つくることそのものが目的の一つなので、そこは変わりはしないけれども、人間のつくる音楽が(聴く人に)どのように受け止められるかは、容易に変わり得ると思う。それはそのときだな、とは思いますね

Yahoo!ニュースオリジナル特集インタビューより

音楽生成AIについて尋ねられたインタビューで上のように語った米津玄師。冷静な現状認識をしつつ、作品にはその逡巡が表現されているように思う。M15「がらくた」では、“あなたでいることの肯定”を明確に行いつつ、AI時代においては外れ値として処理されかねないはみ出た人間性をそっと抱きしめるような慈愛に満ちている。歪さこそが人間を人間たらしめる、という意思表示だ。

そんな温もりある地点から、M16「YELLOW GHOST」では急激に血の気が引くような冷たい浮遊感に襲われる。性愛を歌いつつ、死を見つめた曲とのことであり、求めることで喪失していくという主題は「がらくた」の裏面にある宿命のように思える。そしてM17「POST HUMAN」では無機質な音像で終末世界のワンシーンが切り取られ、もはやそこに生気はない。人間性の死への恐怖というテーマが浮かび上がる流れと言える。

風を受け走り出す瓦礫を越えていく
この道の行く先に誰かが待っている
光さす夢を見る いつの日も
扉を今開け放つ 秘密を暴くように
手が触れ合う喜びも手放した悲しみも
飽き足らず描いていく
地球儀を回すように

「地球儀」より

誰もいなくなったような世界に現れるのはM18「地球儀」だ。宮﨑駿「君たちはどう生きるか」の主題歌として4年かけて作られたこの曲は、彼がジブリ映画から受け取ってきた想像すること、もっと幼い感覚で言えば空想することで誰かと出会っていく生き様を歌った楽曲だ。人工知能には奪い去れないやり方で、もう1度感情を、肉体を、人間性を取り戻す。覚えた恐怖に自らの空想でケリをつけた、米津玄師の表現者としての矜持を体現したのがこの終盤の流れと言えるだろう。

精神分析家のフロイトが言うには空想は満たされない本能的欲求の発露で、その存在を抑圧すると時に病的な状態を引き起こす重要なものだ。そうならないために抱いた空想を創造の段階に引き上げ、心を危機から救うのが全ての表現の始まりとも言える。米津玄師は本作の終盤においてそんな空想を”幹“とし”脊椎“としている自分自身の在り方を見事に作品として昇華してみせたのだ。

仕事のやり方も、自分の根っこをもオープンにして辿り着くのはリラックスムードすら漂うM19「LOST CORNER」だ。ここまでの張り詰めた空気を緩ませる、晴れやかなドライブチューンは彼の30代としての等身大の宣誓だろう。《生き続けることは 失うことだった》という人生の本質を自覚しつつ、それでも煌めく何かを探しまた動き始める。頼もしい走り方を見せてくれるのだ。

アルバムは不可思議な電子音がうごめく半インスト曲・M20「おはよう」で締め括られる。最後に1日を始める挨拶を置いたのも示唆的だ。明日からまた、絶えず労働を続けていくこと。そのためにまた、絶えず空想を続けていくこと。労働し、空想し、労働する。反復のようでいて、新しいものが生まれ続ける彼の生業は、失われることなく現代を牽引していく。その先でまた、新しい“我々の歌”と出会う日がやってくるのだろう。


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