ぼんやりと考えていること
40時間以上寝付けず、腹痛に苦しみながら炎天下に10km以上散歩した代償を完済し終えた(多分)。
手足の震えと吐き気があったが、1日20時間以上の睡眠を4日ほど続けて回復した。ご飯も1日一食だがちゃんと食べられるようになってきた。
元気になってきたから、ずっと考えていることを言語化して残しておきたいなと思って眠れない夜に書き始めてみた。
私は、いわゆる「お勉強」への適応能力が高い人間だと思う。学校の、試験によって点数化され、人と比較される競争としての「お勉強」に適合して生きてきた。
人生を振り返りつつ書くので、結論だけ読みたい人は目次をうまく使ってね
小学校まで
塾に行き始めたのは小2。もともと勉強できないタイプでもなく、ごくごく普通。国語が少し得意で算数がちょっと苦手な子供だった。お姉ちゃんが塾に行き始めて中学受験の準備をしている姿を見て、自分も勉強したくなって母にねだって塾に入れてもらった。
入塾試験も既習範囲は満点って言われたのを覚えているから、出来は良かったんだと思う。でも心が未熟だったから、塾で先取りして周りの子よりお勉強ができることを誇って鼻にかけていたと振り返れば思う。
小4から小6は成績順で座席が決まるシステムだったから、1位の席に座れるようにめっちゃ頑張った。そして、いつも低い順位に座る男子のことを努力不足でダメな奴だと思っていた。最低だね。
塾の模試では基本1位か悪くても3位とかで優秀な子だった。志望していた中学にも落ちるわけないと思っていたし、事実受かった。自分の住む地域で女子の行ける学校としてはトップだった。
「ああ、やっぱり自分は優秀だな」
って思ったの覚えている。
中学入学から卒業まで
でもまあ、優秀な中学入ったらその中では平凡な方だろうと思っていた。頑張ろうとは思うけど、地の能力としてかなわない人たちがごろごろいる世界だと思って覚悟して入った。
入学してすぐに行われた試験は確か13位とかそこらだった気がする。(10番台で奇数としか覚えてない。多分でも15よりは上だった)
180人以上いる学校でこの順位は上々だ。この時「あれ、この学校においても自分は優秀な側に入るのではないか。そんなにみんな優秀ではないのか。」と思った。
拍子抜けだった。これなら最上位も目指せると思って必死に勉強した。
実際、中1から休日に6時間以上勉強していたのはなかなか勤勉だと思う。クラス内でも優秀な方で5番以内から落ちることはなかった。
部活も頑張った。でもこっちは全然向いてなかった。競技かるたをしていたのだけど、最初の札を覚える段階は同期でもかなり早い方だったのに一番弱かった。朝練も行ったし、真面目にやっていたのに。
絵も下手だった。美術は平々凡々。
音楽もてんでダメ。歌なんて下手すぎて、合唱コンの時軽くいじめられた。女子の一軍的な層ほぼ全員に無視された。あれは怖かったな。あの時の恐怖で高3の時の学祭の合唱チームから外れるために照明に立候補したもん。
体育も普通。ダンスは下手だったな。下手だったからなのか、合唱コンと近い時期でその余波だったのか、私は違う振り付け教えられてて発表の時半泣きになったの覚えている。
まあ何が言いたいかと言えば、お勉強以外何もできなかったってこと。他者から評価してもらえるものの中で私が得意だったのはお勉強だけ。だからさ、そこにアイデンティティを求めちゃったんだよね。
何かできないことがあっても、否定されることがあっても、「あいつより勉強ができる。私は勉強が得意だ」ってので自己肯定感を保ってきた。
勉強ができれば、先生も親もお姉ちゃんもほめてくれた。それ以外で褒められた経験があまりないのかもしれない。(お姉ちゃんは「そのままで十分なんだよ」と時々言ってくれていたけど)
数値化されたり、目に見える結果があったりするようなものを好んだ。数検とか。数学は好きだったし、数学科に進学したいって進路調査に書くくらいだったけど、検定で優越を覚えていたのも事実。
中高一貫で高校受験がないから、定期テスト・模試・検定に向けて勉強を頑張った。
おかげで学内の給付型奨学金を手にできた。助かる。父の会社が中2の終わりに倒産して借金まみれだったから。
(中2の時から好きだった子が、私に最初に話しかけてきてくれたのが「しゃんしゃん、数学1位だったね。数学好きなの?教えてよ」だったのも、勉強ができることが私の自信を支えた理由にあるかも笑)
高校入学から受験直前期前
楽しい高校生活を送る予定が、入学初日で受験の話をされた。
受験を意識して生活することを求められ、学習時間・成績で測られる日々が始まった。「顔と名前は一致しないが、名前と偏差値は一致する」という入学式後の教室で放たれた言葉は印象的で忘れられない。
もちろん受験のみの高校生活ではなかったし、「勉強だけしたいなら予備校にいけばいい。ここは予備校じゃなくて高校だ」って発言をしていたことから担任も別に受験がすべての人ではなかったと思う。
ただ、未熟な私はあの空間において自分の立場を肯定するには勉強しかないと思った。ほかに秀でたもののない私が自分の存在を肯定するには勉強しかないと思った。
中学の時に筋トレにはまっていた影響で健康食品が好きだったから理系に進んで食品開発をやりたいと思っていた。進路面談でそのことを言ったら
「研究とか開発に進めるのは優秀な極一部で、お前はそこに入れない。お前が数学とかが得意なのはセンスがあるとかじゃなくて時間をかけたからで、時間の限られた受験において理系に進んでいたらいい大学には行けない。学歴を優先しろ。文系なら東大に行ける。理系なら京大までだ。」
って返された。へらへら笑って「そうっすね」って言ったけど、その後家でめっちゃ泣いた。(もしあの時の担任がこれを読むことあったら、オブラートにモノを言うことをお願いしたい限りだ)
ひどい言い方だけど、まあ事実だ。それから2,3ヶ月悩んで文系に進むことに決めた。
(担任に説得されたと思われるのは癪なのでここで本当の理由を書くと、好きな先輩が文系で東大を受けるといううわさを聞いて追いかけたくなったから文系にしたんだよ)
そこからは必死に勉強をした。文系内ではほぼずっと学年1位だった。家族も先生もみんな褒めてくれて、勉強ができるから自分には価値があるし、みんな目をかけてくれるんだって本気で信じてた。
成績下がると追い詰めてくる担任が、成績がいいとほめてくれたんだもん。嬉しくて、褒められたくて頑張った。
ある種の愛着障害的なあれもあるのかもね。小1ぐらいまで母のワンオペの家庭だったんだけど、母が躁鬱でASDだったからさ、気に食わないことあるとすぐ殴られたし、蹴られた。ご飯捨てられたり、用意してもらえなかったり、引きこもっちゃって出てきてくれなかったりしたし。
お姉ちゃんはよく成績悪くて殴られたり蹴られたりしてたから、それ見て成績が良いことは生きる上で必要と本能的に感じてたのかも笑
受験直前期
この頃はまじでメンタルが最悪な状況だった。寝る時大体泣いてた。
幻聴と幻覚、金縛りで寝るのもしんどかった。精神科で出された薬も合わなくて吐き気してたし。
いろんな人が、絶対受かるよって言ってくれた。私もまあ受かるのでは?と思っていた。でも受験が近づくにつれて成績が受験生内で相対的に下がっていった。怖かったなー。
最後の高校生活を楽しもうと休み時間は友達と話すことが多かったけど、話題は受験、成績のこと。
受験が近づくほど自分は他人の成績馬鹿にしたり、志望校でどうとか言ったりすることで自己肯定感を保とうとすることは減ったと思う。受験がリアルなものになっていったから。
直前期はマジで他人のことを点数で測ってやろうみたいな野卑な感情は薄れていった。(もともとそんな感情を持って、自分の精神を保とうとすることが健全じゃないってのは大前提だよ)
だからさ、「あの子は早くに合格出たけど○○大学だからな笑」みたいな同級生の発言に、若干の軽蔑と、それだけ追い詰められている状況への同情と、自分も周りからこんな風に見えてたんだという恥ずかしさを覚えた。
もとは成績で全てを測られるような状況に嫌悪感を覚えていた人も、その競争の中で最適化していこうと、適合していこうとする内に、学歴厨的な感覚を内在化させていってしまうのだと思う。
国立前期試験が近づくにつれ、こういうことを考えることが増えていった。現実逃避もあったかもだけど。でも、冷静に自分の置かれている状況を捉えようとしていたのかも。
こんなわけわかんなくて、地方格差・経済格差・男女格差の大きな競争を必死こいてやって、これですべてが決まるとでも言いたげな状況が嫌だったのかも。
受験後(合否発表前まで)
なんやかんや考えながらも受験が終わった。18年間で一番大きなイベントだったかも。
解放感と恐怖が襲った。
やり切れた。これで落ちるなら仕方ないと言えるほど思い残すことのない受験だった。
だから怖かった。言い訳の余地がない。逃げ道がない。
これでだめなら、私の能力の真っ向からの否定だ。落ちたら周りはどんな反応をするだろうか。手のひら返しで見向きもしなくなるのだろうか。
入学式で赤門前で写真を撮りたいと笑う母はどんな反応をするのだろうか。
俺は絶対受かってると思っているからなんも心配してないよと繰り返す父はどんな反応をするだろうか。
学校の先生・同級生はどんな反応をするだろうか。
ただ怖かった。へらへらした態度でみんなとおしゃべりしてたけど、怖くて夜泣いていた。みんなが私を価値なきものとして扱うのではないかと思って怖かった。
合否発表後
落ちた。
祖父母のお家で受験結果を見て泣いたのを覚えている。家帰ってからは吐いた。後期を受けるよう親に言われたが、不合格という努力の否定をくらうのがどうしても耐えられないからいやだと主張して、殴られたけど免除された。(母は私が高校生になっても度々手をあげることがあった。私も反撃するけど。)
後期を受けないって言った時に「そんなに弱虫だと思わなかった」と言われた。これまでの努力が否定された気になり、自己を肯定する材料を失っていた状況に対して、もう少し手加減した言葉をかけてほしかった。親もびっくりしちゃっていったのかもだけどね笑
さて、私大への進学準備やら何やらをしなくてはならなくなった。でもまだ心の整理ができていない。
不合格を知ったその日、ベットの上で泣きながら天井を見ていた。1時間ぐらい泣いた後、「このままじゃ、大学生活を台無しにしてしまう。切り替えなければ。何らか自分の中で意味付けをした方がいい」と思った。
(この段階に進むにはちょっと早かった気もする。5月にやっぱりつらいなって泣いちゃった時、お姉ちゃんに「傷つくべき時にきちんと傷つくべきだったんだよ。『ドライブ・マイカー』を見なさい」と言われた。)
さあ、脳内会議の始まり。
議題:大学に落ちたことの意義
まず、私の価値は勉強ができることのみに裏付けされているわけではない。
勉強ができなくても私は私を肯定できるようであるべきだ。何かができるから/他者より優れているから私に価値があるのではない。何もできなくても、生産性がなくても私は私という存在を肯定していいはずだ。
先生はもしかしたら落胆を示すかもしれないけれど、親も姉もみんな突然私を無価値として扱うとは思えない。友達も友達のままでいてくれる。
そして、自己責任論を振りかざすことの危険性に気づかされた。
第一志望は受からなかった。じゃあ、私は努力をしていなかったのか。そんなことはない。努力をしたし、あの時の全力だっと思える。それでも届かないものがあるのだ。あったのだ。
今まで、何かを手にできなかった人は努力をしていないからだと思っていた。努力ができること自体の特権性にも気が付かずに。自分がやられたらつらいからという理由で考えさせられて、気が付かされたのだけど、努力不足みたいなことで他人のことを切り捨てようとすることの暴力性に気が付いたのだ。私はこれまで暴力はいけないが、勉強によって回避できるのにしないお姉ちゃんを理解できないと思っていた。
「やればできるようになる」
を振りかざすことの暴力性なんだと思う。自分を鼓舞するのには良いけど、他人を糾弾するのに使っちゃいけない。
脳内会議終わり
脳内会議の内容は整理して、両親に照れ臭かったけど報告した。「勉強ができることでしか自分を肯定できないとまで思っていたんだね。そんなことないんだよ。気が付けて良かった。それに気が付けただけで受験の価値があったね。」と言われた。
※あんなに入学式に来たがっていた両親が、私大に入学するとなったらその話題を出さなくなり、実際来てくれなかったときは少し傷ついたけどね。あー、東大じゃないと入学式来てくれないんだって。靴擦れで歩けないし、入学式の会場間違えて遅刻しそうだしで泣いたの覚えている
まとめ
こじらせ含めてここまで全部読んでもらった方が私としてはありがたいけど、まあここだけ読んでもいい。
だらだらとした稚拙な文で何を言いたいかわからない人もいるだろうし、ここでまとめとくね。
受験で気が付いたこと
・勉強ができるというのは私の個性の一つでそれだけでみんなが私を評価しているわけじゃない
・自己責任論とか、「やればできる、やってないだけ」みたいなのを他人に対して振りかざすのは暴力的
つらかったし、行きたいところに行けなかったけど受験はやってよかった。改心できたし。逆に受かっててトントン拍子ですべてが進む万能感で生きてた方がやばかったかも。折られておくべきところで折られた。
理屈として整理できても、やっぱりたまに不合格のつらあを思い出すことはある。でも、それも含めて仕方ないやと思えるし、そんな自分含めて受容しようという態度がとれるようになっただけ成長だろう。
謝辞:高校の時の現代文の先生のおかげで気が付けた要素がでかいです。ありがとうございました。
最近聞いている曲
工藤祐次郎『たのしいひとり』
『0.5の男』ってドラマきっかけで聞くようになったアーティスト。せっかくだからその時の主題歌で。