尖ることで人間は気づきを得られる。
月曜日の正午過ぎ、最高気温は34℃をマークしていた。
協業先との打ち合わせ前に花岡さん、山根さん、佐々木さんと私の4人は近くで有名な担々麺の店に入った。
メニューには数種類の担々麺が並び、山根さんは即座にメニューを決めた。
隣に座った花岡さんはいくつかの麺を吟味して決めると、メニューを裏返して私に手渡した。
「これが有名やで」
そう言って花岡さんが指差した先にはとても美味しそうなタピオカとかき氷が書いてある。
時刻は12時を少し回ったところ。
もちろん私は「女子」でも「高校生」でもない。
奴隷生活も半月ほどになってくると「疑う」とか「反論する」という思考が欠如するのか、かき氷とタピオカの欄しか目に入らなくなっている。
結局自分以外の人間3名は豆乳担々麺を注文し、自分だけがタピオカとかき氷を注文した。
「ハイドーゾー」
片言の日本語で褐色の男性店員が担々麺を3つ持ってくる。
かき氷は時間がかかるらしい。
山根さんと佐々木さんが割り箸を割っていると、花岡さんが急に山根さんのアツアツ担々麺に手を伸ばし、素手でひき肉を掴み取った。恐る恐る何してるんですか?と聞いても、花岡さんはひき肉を味わうことをやめない。
「かわいそうに」と被害者である山根さんが呟いた。
どう見ても悪ふざけの餌食になったのは山根さんなのに。
「ひき肉の脂つくなんて絶対嫌やわ。俺は別にええねんけど、花岡がほんまかわいそうなってくる。」
慈悲深いのか何なのか。
この奇妙な関係性が20年近く続いていると思うと感動すら覚える。
15分が経過しただろうか。
もう全員担々麺を食べ終わった頃、タピオカとかき氷が到着する。
早く食べなければ。
奴隷の分際で人間メンバーを待たせるなんて極刑に値する。
すると花岡さんがスッと裏返しにした紙コップを2つテーブルに置いた。
じっと私を見据えて口を開く。
「これボタンな、1と2。はい押して。」
ボタン?
1と2?
押して?
とりあえず言われるがまま紙コップの裏を触ってみる。
「ウィ〜〜〜ン」
花岡さんは機械が動作する時のオーソドックスな擬音を発しながらゆっくりとかき氷に手を伸ばす。そして私がボタンから手を離すと「ガチャン」と止まった。
UFOキャッチャーだ。
そして恐らくターゲットはかき氷だ。
素手で掴み取る気だ。
そう分かっているのに、私はまんまとかき氷の上までクレーンを動かしてしまう。ガチャン。
ワシッ
ギュイーン
ズゾゾッ
別に私に限ったことではないと思うが、他人にかき氷を鷲掴みにされた経験はそうないだろう。何かの映画で見たような、何かが落下した跡地のような、とにかく無残な姿になったかき氷。
それは美味しかった。
「38のおじさんが素手で掴んだ」という文脈を付与されたにも関わらず、深い味わいを醸し出している。こんなかき氷は食べたことがない。
奴隷生活の中でおやつカルパスを主食にしているシャニカマの味覚音痴を差し引いても、有り余る旨さがそこには存在していた。
花岡さんが鷲掴んだのに美味しいのはなぜか?
いや、花岡さんが鷲掴んだから美味しいのではないか?
全てがつながった。
そう考えると、あのまん丸なかき氷を注文させたことも、鷲掴みにしてトップのイチゴをこそぎ取ったことにも納得がいく。私の解釈はこうだ。
花岡さんが伝えたかったのは「イビツになれ」と言うことだ。
今の私は食べる前のかき氷そのものであり、綺麗な球体になっている。
何一つ尖っている部分がなく、洗練されて見える「綺麗な存在」なのだ。
しかし、そのかき氷から感じるものは何もない。
ただただベルトコンベアに乗せられて流れ作業の中作られた「製品」としてのかき氷なのだ。
一方で鷲掴みにされたかき氷はどうだろう?
そこに一貫性や法則性はまるでない、まさにアートだ。
造形美や黄金比のようなものは含まれないにせよ、見るものを惹きつける圧倒的な違和感とチカラがある。
そして、あのかき氷が美味しかったのも、花岡さんの手が加わったからだと思う。
一緒に注文した黒蜜タピオカは歯が溶けるほどに甘かった。それを見越した花岡さんは、敢えて先に山根さんのひき肉を手に付け、その手で私のかき氷を掴む。その結果かき氷に付着した塩加減がスイカに塩の役割を果たし、深い味わいを醸し出したのだ。
入店した時、ここまでの奇跡を誰が予想しただろうか。
それもこれも鷲掴みにされたからこそ。
かき氷のように尖った行為があったからこそ。
イビツになろう。
心から。