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ツッコミは慈善事業ではなく、営利目的であれ。

昨日、出張で東京に出ていたので、久しぶりに前職の同期と飲みに行きました。
それぞれの変化や成長を共有しあい、思い出話に花を咲かせながら語らう時間はとても有意義なものです。

ただ、1点だけかつて同僚だった頃と違う違和感を感じました。
同期のボケがなにひとつ笑えないのです。

以前なら大笑いしていたミニコントも無味乾燥に感じられ、精一杯の苦笑いで誤魔化すことしかできません。
かつては手を叩いて笑った60点ぐらいのモノマネはクスリともできず、無理やりに表情筋を括約させて作り笑いをさせられる新手の拷問と思えたほど。

私が以前より面白くなったとは思えませんが、確実に今いる会社(株式会社人間)の方が高い次元でボケ/ツッコミのやり取りをしているので、その基準に慣れてしまったから笑えないのかもしれません。まあ「面白くて 変なことを 考えている」がモットーな会社ですから。

私が何度目かの拷問を受けていると、ついに同期が怒り始めました。

「おまえ、なにスカしてんの?」
「え…?」
「『俺はそんなんじゃ笑いませんよ』みたいなさ」
「いや、そうじゃないねんけど…」
「ちゃんとツッコミ入れろや!」
「ごめん、そういうつもりじゃないねん…」

どうしても「お前のボケがあまりにつまらないから」とは言えず、謝ることしかできませんでした。しかし、ホテルに帰るも途中いろいろと反芻していたのですが、やはり彼の一言が腑に落ちません。

「ちゃんとツッコミ入れろや!」

やっぱり、この発言はおかしいと思うのです。
彼は大きな勘違いをしているのだと。

ツッコミは『慈善事業』ではなく、あくまで『営利目的』の活動です。

そもそも「ツッコミ」というのは、単純な「ボケに対する反応」ではありません。
「ボケ」がどの角度で伝われば一番面白いかを判断して提示する、笑いを生む連携プレーの一部なのです。

例えば「カフェオレのミルク抜きで」というボケに「何言うてんねん!」とざっくりツッコミを入れるのと、「それコーヒーやがな!」と具体的にツッコミを入れるのでは笑いの量も変わりますし、「あのさ、コーヒーって知ってる?」や「肺活量の無駄!」などと少し捻りを入れてもウケ方は違うでしょう。

ボケがコーナーポストからあげられたセンタリングであるなら、それを最後ゴールに蹴り込むボレーシュートがツッコミなのです。それで最後のウケが決まる。

要は、チームプレイで「笑い」というゴールを狙うための同一目的的行為であり、優しさや思いやりで行うものでも、ましてやマナーやモラルというものでもありません。お互いに利益があると判断するからこそ成立するフラットな「取引」なのです。

それを「ちゃんとツッコミ入れろや!」と教養するなんてもっての他です。
まるでシステム開発の会社が「バグまみれだけど作ったからお前の所で買え」と言っているようなもの。言語道断です。

その意味で、ツッコミとは営利目的で行われる行為であり、ウケないものは切り捨てて然るべきということになります。
みなさんも無闇にツッコミを期待しないようにしましょう。

そんなことに気づいた今日のことです。
朝から大便をもよおしており、夕方まで排泄タイミングを見失ってしまいました。

肛門括約筋を重量挙げ選手の奥歯ぐらい食いしばり、やっとのことで池袋のサンシャインシティにたどり着きました。
すると大きな入り口が3つもあるではありませんんか。

もうほぼ限界に近づいていた私は、直感に任せて一番奥の扉に駆け込みます。するとそこには大きな「ダイソー」があるだけで、トイレは標識すらない残酷な現実でした。

その時です。

「ダイソーじゃなくて、モレソーやねん!」

自分でも耳を疑うほど大きな声(ヤバイ人の独り言程度)でツッコミを入れてしまいました。
恥ずかしさの赤面と便意での蒼白が混ざり合って顔面がピンク色になり、また駆け足でトイレを探しました。

何の利益にもならない、ただ肛門に負荷をかけるだけのツッコミ。
「身」を削っての慈善事業と言えるでしょう。
「実」は出ませんでしたけどね。

めでたしめでたし。

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岡シャニカマ
サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。