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オタクになれない私の「つよがり」を1つ聞いてください。

自分のコンプレックスに関しては枚挙にいとまがないのですが、そのうちの1つに「オタクになれない」と言うものがあります。
言い換えれば「深い趣味がない」と言いましょうか。

例えば、私は今何のファンクラブにも入っていません。
昔はB'zのファンクラブに入っていましたが、経済的な理由で呆気なく断念してしまい、今や最新のアルバムも追えていない始末です。

みうらじゅんは大好きですし、個展にも行きました。
でも「みうらじゅんオタクか?」と問われると、まるで自信がありません

みうらじゅんオタクならガロの頃からの作品を読んだり、集めたり、過去の出演番組を追ったりするのでしょうが、私は一定レベルで満足しているきらいがあります。

まだ「アイデン&ティティ」も読めていないし、大島渚の曲も「カリフォルニアの青いバカ」しか知らないし、スライドショーも2つぐらいしか見れていません。

今は小説にハマっていて西加奈子さんと村田沙耶香さんが大好きになり、トークイベントで質問までしましたが、これも「オタク」までは深まらないでしょう。

レベルが低い。
全然オタクになれていない。

これはとても大きなコンプレックスです。

特に今の会社でも、前の会社(ゲーム会社)でもオタクの人が多かったので「シャニカマって何オタクなの?」と当然のように聞かれるのですが、その度に「うーん…お笑いは好きな方ですが…」と口ごもってしまい「おもんないヤツ」の烙印を押されてしまいます。

なぜなのでしょう?
1つ自分の中に仮説があります。

それは「理解することが目的」ということです。

オタクの人であれば好きになった作家や演者、作品に触れているだけで感情が揺さぶられて幸せになるのだと思います。だから同じ作品だって何度でも読めるし、同じ曲でも何回だって聴ける。

しかし、私にはそういう感情が薄い。
無いわけじゃありませんが、目的では無いんです。

私の目的はあくまでも自己完結する「理解」です。
1つの数学問題を解くかのように、作家さんの素晴らしさを紐解いていき、自分の中に公式が完成した瞬間に終わってしまいます。

例えば今「仁義なき戦い」を観始めているのですが、これも最後まで観て「こういう普遍的なメッセージが込められているから刺さるのか」とか「展開が早い映画だとこういうメリットがあるのか」みたいに分析が完了した時点で終わります。もう2度と観ないでしょう。

そして、その公式が正しいかどうかは重要ではないのです。
あくまで「自己完結」すればいい。

なぜか?

「喋りたいから」です。

わかりやすいですね。
シンプルに自分だけの感想を起承転結でストーリーにして完成させ、何か話題が繋がりそうな時に引っ張り出して見せびらかしたいだけなのです。

要するにみんなでワイワイしている時に「へえ〜」と言ってもらえるだけの物語が欲しいだけで、あちこち行ったり、観たり、触れたりするわけです。

自分の中に短編集を作っている感じですね。
いや、ポエム集ぐらいかもしれません。
それぐらい薄くて短い。

これを聞いて「浮気者」と軽蔑する人がいるでしょうか?
「愛がない」と蔑む人がいるでしょうか?

それは違います。

Mr.Childrenの「名もなき詩」にこんな歌詞があります。

愛はきっと奪うでも与えるでもなくて、気がつけばそこにあるもの

多くの人は「愛の泉」みたいなものが誰しもの中にあって、そこから何リットル、何トンの愛を注ぎ分け与えるかという考え方をしているかもしれません。

しかし、愛とは「気がつけばそこにあるもの」なのです。

奥さんとの間にふと生まれた「愛」もあれば、友人との間に生まれた「愛」や、子供たちとの間に生まれた「愛」、はたまた不倫相手との間に生まれた「愛」だってあるわけです。

それは何か限りあるものを配分するという話ではなく、何もないところから勝手にニョキニョキと生えてきているという感覚に近い。

だから「仁義なき戦い」を好きになったからと言って「スターウォーズ」が好きじゃなくなるわけでもなく、石田ゆり子が好きになったからと言って竹内結子が好きじゃなくなるわけでもない。全部好きなんです。

私は愛をどんどん押し広げている最中です。
そんな非オタクのつよがりでした。

ミスチルの威を借る狐だったことだけが反省点です。

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岡シャニカマ
サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。