【短編】そこ、一旦停止
人気の少ないT字路に一台の乗用車が入ってくる。
停止線前の手前で減速し、停止せぬまま左折した。
「はい、そこの乗用車止まってください」
ようやく手に馴染んできたトランシーバーでそう告げると、シルバーのセダン車は素直に停車した。
静岡県警に就職し、浜崎駐在所に勤務し始めてやっと1年が経つ。殺人や強盗など凶悪な犯罪は滅多になく、ほとんどはこう言った交通違反の取り締まり。いわゆる「ネズミ捕り」だ。
今年実家に帰った時には、父がスピード違反で免停を食らったらしく、なぜか僕へのアタリが強かった。まるで尊敬できない。
セダンに向かって歩いていると窓がゆっくりと下がる。
単発の中年男性が顔を出した。
「なに?」
「いや、一旦停止なんですよそこ」
「それが?」
「あなた停止してなかったでしょ?」
「してたっちゅうねん」
関西人だ。苦手なタイプ。
面倒なネズミを捕まえてしまったと後悔しつつ、自分の胸に付けたバッジには「国家権力」が付いていることを思い出し、冷静になる。
「してませんよ、私見てましたから」
「どこ見てんねん、見てたら停止してたの分かるやろ」
「いや、止まってませんから。とにかく免許証出して」
「出さへん、まず話しよ」
なんだコイツ。
やっぱり関西人って面倒だな。
よく見ると顔も千原せいじに似ていてイカつい。
「話しよ、じゃなくてね、一旦停止してなかったんですよ」
「ほんなら、そもそも『停止』ってなんやねん」
「それは車がピタッと止まることでしょう」
「何秒?」
「だいたい3秒ぐらいじゃないですか」
男が少し口角を上げた。
嫌な予感がする。
「お前らって法律に則って違反取り締まってるんやろ、その法律に『だいたい3秒』って書いてんのか?書いてるわけないよな、法律に『だいたい』なんて曖昧な表現が。んなこの取り締まりはお前の主観に基づく勝手な不当逮捕っちゅうことや、それ職権乱用やんな。それにそもそも『3秒』を判断する警官のあんたがストップウォッチも何も持ってないのってなんでなん?そんなんで判断してへん何よりの証拠ちゃう?明確な定義もないままに人を裁くなんてことがあってええんやろか?どう思う兄ちゃん?」
男が流れるようにまくし立てるので、噺家の話を聞いている気分になってしまった。
待て待て、これは単なる屁理屈だ。
「一旦停止」は警察が目視で判断するんだ、先輩もそうしていた。
「屁理屈はいいから、何秒とかじゃなくてそもそもあなたは停止していないんですよ一度も。とにかく免許証を出してください」
「おお、ほな停止したってどう判断してんの?」
めんどくさい、めんどくさ過ぎる。
こんなヤツが父親じゃなくて本当に良かったと思う。
一瞬正月の父が頭をよぎったので、ムカついてすぐ振りはらう。
早く言い返さなければ。
「車の動きが一度でも止まったかどうかは私が警察官が目視で判断しています」
「お前の目が悪いんとちゃう?」
「は?」
「は、やなくて、何でもそうや。滑らかに進んでいるように見えて、それは止まって、進んでの一瞬一瞬の繰り返しなんや。その止まった瞬間をお前が見逃してるだけちゃうんか。ええか、リニアモーターカーかて瞬時に電極をS・N・Sって交換して進んどんねん。つまり止まって、進んで、の繰り返しなんや。分かるか?」
なんだコイツ…。
もうこうなったら最終手段だ。
免許証をとにかく出させる、出さなければ無理矢理とる、そこで反抗してきたら公務執行妨害だ。
「はい、もう屁理屈聞いてられませんから。免許証を出しなさい」
「わかった、出すから」
「早く出しなさい」
意外と素直になってきたな。
「でもその前にちょっとだけ聞いてくれ、1分でええから」
「1分だけだぞ」
とにかく1分後にゴール、いや出口が見えたので許してしまった。
警官になっても甘い、そんな自分を少し恥じた。
「兄ちゃん、さっきの話な。ずーっと進んでいるように見えて、何でも進んで、止まってを繰り返してる。これは人生も一緒や。順調に進んでそうな人を見て『天才や』とか『タフや』言うけどな、ほんまはその人の中で何回も立ち止まってるし、何やったらバックしたりしとんねや。でもな、そうするから前に進めるんやで。兄ちゃんかて今『止まってる』とか『成長してへん』とか思うかもせんけどな、それがあるから進めるんやで。一旦停止するから、前に進める。進んでる車は、常に一旦停止してるんやで」
そう言うと男は免許証を差し出した。
そこから男は一言も発さず、ただ切符が切られるのを待っていた。
富士山を滑り落ちてくる涼しい風の音だけが聞こえる空間で、僕は淡々と作業を進めつつ、男の言葉をどこまでも深く反芻していった。
『進んでる車は、常に一旦停止してるんやで』
男に免許証を返すと小さく、おおきに、と言った。
去っていく車の先に、雄大な富士山があった。
「こんなに大きかったっけ」
なんだか自分がしていることが小さく思えた。
自分は何に照らし合わせて「正しさ」を判断しているのか。
富士山はとても青かった。
あの免許証と同じ色だった。