生産性・合理性では測れん何か
昨日、地域の知り合いの方主催で、旭地区に今年度関わってくれた大学生・大学院生の成果発表会みたいなもので登壇してきた。
いままでそんなに自分の活動とか思っていることを地域の方に表現することはなかったので、これを機に想いが伝えれてすごく嬉しかった。
イベントとしては大成功で、最終的にハートフルな、泣き出してしまう人もいるレベルのアツいものとなった。
そのあと発表した大学生・大学院生と、主催の方と参加者でうちの古民家で集まって鍋パをした。
よく戸田さんが「雑談が大事なんですよ〜」と言っていたが、まさにその重要性がわかる時間だった。
という感じで、ここの鍋パで話したことがすごく面白かったので、僕なりに切り取って考察してみようと思う。
感性派と理論派
僕が学生団体をしていた時に難しさを感じていたときのことから、この話題になった。というのも、僕自身はすごく感性派で、何か物事を考えていても、それをうまく言語化できず、やはりしっかり言葉に表せている、いわゆる理論派に言い負かされてしまっていた。
戸田さんもまさに同じような経験があるようで、頭がいい理論派と頭が悪い感性派でかなり分の悪い状態だったよう。
感性派の人が考えていることをロジックで説明すると訳わからなくなってしまいがちだなということは、すごく僕自身の実体験としてあった。
最近はある程度ロジックで説明できるようにはなってきたと思うし、話すことの一貫性に関しては意識しようと思うこともある。
ここで戸田さんから面白い言葉があった。
感性派が持っている感覚というのは、ものすごく複雑で因果関係が分かりずらいロジックの集合体をふんわりとなんとなく腹落ちさせている状態なのだという。
それを聞いて僕自身すごく納得した。うまくロジックで説明できないけど、経験知的に「あーなったら、よくわからんけど、こうなる」みたいなのが感性というのは実感としてすごくある。
多分理論派の人はその複雑なシステムをしっかり紐解いていくことで納得させていくのだと思う。けど、感性タイプは「まあそういうもんだ」で片付けれてしまう。ある意味適当なのかもしれないし、そもそもアプローチが言語的(理論派)か、非言語的(感性派)なのかの違いもあるのだと思う。
その話を聞いて、「複雑系」という学問を思い出した。
ちょっと説明するのがだるかったのでウィきりました。こうやってみるとそれこそ複雑で訳分からんこと言ってるけど、感性タイプが「よくわからんけどなんかそうなる」 というのはまさにそういうことなのではないだろうか。
複雑系は、感性派が抱いているモヤッとしたものをロジックとして説明する架け橋になっているのかと思うとすごく夢が膨らむなと小学生並みの感想を抱いた。
田舎に来る理由
田舎と都会で二元論的に捉えてしまうことはすごく心苦しいが、ここではさせてもらう。
この地域に来る人たちの中で一定数「都会に馴染めなかった」という人がいる。仕事が辛くて鬱になってしまったとか、そりが合わなくてUターンしてきたとか。そういう人たちが田舎に誘われて、癒され、住処とする。ここは田舎にいなくてもなんとなく想像できるストーリーだと思う。
僕自身も名古屋から田舎に来て、魅了され、気づけば2年も経っていた。
よく、何がそんなにいいのかを問われる。
田舎の人はあったかいとか、自然がいっぱいとか、表面的な言葉で取り繕うこともできるが、ここには本質な何かがあるんじゃないかと思っている。
僕が思うのは、「人と繋がってる感」だ。
うーんでもこれ一言では網羅できてない気もする。「自分を見てくれている感」でもあるし、「利害関係に左右されない関係性」でもある。
「ご近所さん感」?うまく伝わらん。
この感じは、現代社会において非常に得られづらい感覚だと思う。通常、人と人が関わる時には何かしらの利害関係や立場の上下が存在する。社会人コミュニティとかサークルとかは別だが、一つの文脈を共有して同じ土俵で、且つ利害関係なしで繋がることっていうのはそんなにない、と思う。
けど田舎だとそれがデフォルトだ。地域、という文脈で共通すればそこからはフラットな立場の住民として関わっていくこととなる。だから仲良く話してるけど、お互い何してるのか知らないとかめっちゃある。だから今回の発表会があったと言っても過言ではない。
それがすごい心地よかったりする。等身大の自分を曝け出していいんだ、比較されたり競争しなくていいんだ、と安心できる。
ここがいいんじゃないかな、結構うまく言語化できたと思うんだけどどうだろう。
どんどん個人化が進んでいく社会へのアンチテーゼとして田舎的な価値観があってもいいんじゃないかなと僕は思うのである。合理性とか生産性では測れない感覚的な心地よさを求めている人はまだまだたくさんいるだろうし、それをもっと言葉で説明できるようになりたい。
別に都会が嫌いなわけではない
ここまで書いてみて、すごく田舎の価値観によった文章になっているなと反省した。僕個人として二拠点居住というスタイルを貫き、田舎と都会の価値観を共に持ち続けることを目指している。
僕は別に都会が嫌いではないし、細部まで計算された、洗練された、理にかなったものや人に対してリスペクトを感じる。そもそも僕が休学したのも、そんな人間になりたいからだった。(その夢はどこかのタイミングで打ち砕かれたのだがその話は後日。)
だからこそ、お互いがつながっていき、新しい価値を産んでいくことが僕の願いである。
やっぱり田舎サイドの人の話を聞いても、都会アンチは多いし、合理性=悪みたいな感じになる。
一方で都会の人の、「もっとこうすれば田舎は発展するのに」みたいな話を聞くと、発展すりゃいいって問題でもないんだよなぁって思ったりする。
現代が資本主義ということもあり、社会全体としては合理性が求められるようになっているが、少しずつそれに疑問を持つ人も現れている、って話をどっかで読んだ。
じゃあ資本主義ぶっ壊せ!自給自足だ!みたいな意見も考えられるけど、まだこの形は続くのではないかと僕は思うので、どうにか双方を共存した形が取れるといいなぁって思う。
なんかスケールがでかい話になってしまったが、都会と田舎という二元論で話を展開していくなら僕はこんなことを思った。
まとめ
やっぱり雑談というのはどんなふうに話が進むかわからないという偶発性もあるし、みんなが素で話せるっていう点でもすごく素敵な営みだと思う。よくタバコミュニケーションとか聞くけど、喫煙場で繰り広げられる様相もそれに近いのかもしれない。タバコミュニケーションをするためにタバコを始める人もいるらしいし。
chat GPTが最近めっちゃ話題になっているが、もうマジでそろそろ、人間がAIに勝てる部分が少なくなってきた。こんな状況だからこそ、逆に不合理な、感覚的な何かを人は求めるんじゃないのかなぁ。