第5回講義「借金1億円を背負った元落ちこぼれ、26歳社長の波乱万丈な人生語ります」エピソード①
皆様、こんばんわ。
株式会社SHANANAMIL 代表取締役の池上貴大と申します。
今日はビジネステクニックのお話ではなく、自分紹介の記事を書こうと思います
自分は今、会社経営をして様々な事業をしているのですが、3年前はこんなことになっているとは全く想像していませんでした
ずっと落ちこぼれだった僕にこれまで何が起こってきて、現在に至り会社を設立することになったのか、これまでの経緯を説明したいと思います。
僕のこれまでは本当に多くの挫折と失敗があります
この記事は自分に自信が持てない方や、何かに挑戦したいが怖くて一歩が踏み出せない人達に向けて書いた文章です。
かなり長くなりますが興味がありましたら
最後までご覧いただけたら幸いです。
僕は1994年10生まれ現在26歳です。
大阪で育ちました。
特別体が弱いとかもなく、順調にスクスクと育ち、どこにでもいる明るめな小学生時代を過ごし、中学生にあがります。
小学生の時には気付きませんでしたが、中学1年生くらいから気づいたことがあります。「とにかく人と比べて圧倒的に集中力が無い」
です。笑
思い返せば、小学生の頃の通知表も毎回担任の先生のコメントには『集中力に欠ける』でした。
そんな楽しいことが大好き、勉強大嫌いの僕はみるみる勉強ができなくなり、(できなくなるというより興味が全く湧きませんでした)いわゆる学校の落ちこぼれの部類だったと思います。幸いな事に性格だけは明るい方で友達と仲良くなったりするのは得意な方でした。
なので、友人関係の悩みというのは小学生・中学生時代に感じたことはありませんが、その頃から真面目すぎる両親の考えと反りが合わなくなり、そこから一気に両親とは仲が悪くなったのを覚えています。
高校に進むと、中学生時代以上に自分の落ちこぼれに磨きがかかり、さらに悪い事に今回は学校にも学校の友達にも馴染めません。当時の居場所は初めてのアルバイト先と中学生時代の友達と遊ぶ時くらいでしたが、高校なんかに比べると圧倒的に楽しかったのは覚えています。(高校に通わせてくれた親には申し訳ないですが、、、当時はそんなことすらも気付きません)
結局真面目に通わず留年して、自主退学。遊びとバイトに明け暮れるボンクラの出来上がりです
しかし、この時のバイトの経験が後々になって力を発揮し出してきました。
周りよりも、なまじ早く働き出したので色々な経験ができたのが今となっては良かったのだと思います。
まずやりたい事を見つけるきっかけになったのが16、17歳の時。
初めてのアルバイト先のお寿司屋さんでの先輩でした。
この方に当時は大きく影響を受けたのは今でも鮮明に覚えていて、出会わなければ今の僕の状況は確実になかったかと思います。
先輩はこの場では頭文字をとって『Aさん』と呼ぶ事にします。
この方は僕と年齢が5〜6個離れています。その先輩は一度そのお寿司屋さんを辞めていて僕はその方が辞めていた期間に後から入社したのですが、いつも通りタイムカードを押しに厨房に入るとその方が後からひょっこり入ってきて「Aです。初めまして、よろしくお願いします」と見るからに年下である僕に爽やかで実に丁寧な挨拶をして下さいました。
第一印象は(爽やかで、男前な人)
僕が人生で初めて出会った、カリスマ性も持つ人です。
今でこそカリスマという言葉がよく使われますが、当時一般的な言葉でなかったため僕はその人のことをただカッコイイ大人と表現していました。(そもそもアホなのでカリスマという言葉を知りません。笑)
その方と初対面ではありませんでした
僕は小学生の時、剣道を習っていたのですが、そのAさんはその剣道グループで一緒の方でした。
しかし、僕は当時小学一年生、Aさんは六年生です。2人共見た目も変わりますので顔をつき合わせても思い出せないのは当然というものです。
後になってお互い話をしていると『あ〜!』といった具合に思い出していただけたのですが、そこから同じアルバイト仲間としてみんなと一緒に遊んだりし、少しずつ仲を深めていきます。
現在、僕はお仕事として個人や企業の方々に対してプロデュースやコンサルをするので様々な人とお会いする機会があるので、経験からその方の分析ができるのですが、僕なんかより遥かに素晴らしい能力と人としての魅力をお持ちの方です
Aさんは、アパレル関係のお仕事に就職活動をしていたのですが、その方に勝手に影響を受けていた僕は今まで全く無頓着だった「ファッション」に少しだけ感心を持つようになりました。
そして当時フリーターだった僕は17歳の終わりくらいに古着屋でアルバイトを始めてみるみる、「ファッション」の世界の面白さにのめり込んで行き、なんにも目標や夢もなかった僕に漠然と「服に携わる仕事がしたい」とやりたい事ができました。
僕はそのままみんなが大学に進学する年齢の18歳の頃にタイミングを合わせてファッションの専門学校に進学を決めました。
しかし、ここでも僕は得意の落ちこぼれを存分に発揮します。(笑)
僕の考え方が完全に甘かったのですが、入学して半年程経ち専門学校の(クリエイターコース)課題の量の多さにすぐについていけなくなり、欠席も多くなり、当時の専門学校でできた友達と学校に真面目に通わず夜中に遊びまわる始末。
その結果人生で2回目の留年です(笑)
ここで辞めてしまって、就職も考えたのですがやはり、これ以外にやりたいこともなく1年間学んでみて自分に向いてる仕事だとはうっすらとした感覚で捉えていたので、親に頼み込みもう1年通わせてもらう事が決まりました
そこで2回目の人生を大きく変える出会いがありました
当時は専門学校に通いながら、古着屋でアルバイトをしていたのですがその古着屋では様々なブランドを扱うのでいろんな洋服と出会います。(実は弊社の社名もその当時お気に入りだった洋服の名前から付けられています)
なんと僕が好きだった某ファッションブランドで専門学校の先輩を通じて働けることが決まったのです。
そこから僕のファッションに対する熱がますます加速します。
このブランドのオーナーと出会い仕事をみてるうちに、自分の中でなんとなくやりたい仕事から絶体やりたい志事に変わりました
学校の机の上で学ぶ事と実際にファッション業界の一線で活躍される現場で働くのとでは楽しさの次元が違います
机上の空論とまでは言いませんが、当時僕は学校で学ぶ事が酷く退屈に感じ、必要性を全く感じられなくなってきていたのですが、その職場先のデザイナー兼オーナーの方には「学業を第一に優先し、そちらを疎かにすればクビ」という条件で働かせて頂いてましたので、本当は辞めたかったのですが渋々通っていました
しかし、気づいた時には手遅れの状況で出席数が足らず人生で3度目の留年
今回の留年は今までと訳が違います、何せ学校を辞めたらクビなのですから。焦りまくっている僕は
どうやって言い出そうか考えていたら、時間が経っていきますます言い出しにくくなり、ようやく言い出せたのは学校を辞めてから1ヶ月くらい経っていました。
打ち明けるのは、凄く怖かったのを覚えています。
学校にはお金がなくてこれ以上進級できないと本当のことは隠したまま既に退学したことを打ち明けて土下座して謝り続けました。
その方の性格はよくわかっていたつもりだったので激怒されてつまみ出されると思っていましたが、かえってきた言葉は意外なものでした
なんと「お前はもう身内だと思っているから。学校に通うお金を出すから、アトリエに住み込みでもう一度学校に通い直してしっかり勉強し直してこい」というものでした。
「もしくはアトリエに住み込みで働きながらファッションの勉強をする」
この二つの選択肢、どちらかを選ぶ権利が与えられたのです。
僕は思いも寄らない条件にびっくりしたのですが即答で、「やらせて下さい」とお願いしました。
この時の僕には願ってもない最高の条件で
3度も留年した僕は団体行動や組織に馴染むことが向いていない事に気付きそのアトリエに就職する事に決めました。
翌日にはそのお風呂も無いアトリエの屋根裏に自分の布団だけを運び入れ次の日には働き出します(笑)
それから少しして色々な事情で結果辞めることになるのですが、(各会社様で内部の情報を勝手に僕が公の場ではお話しできず、詳しく説明できず申し訳ありませんが)
20歳の当時、僕は本当に居たかった居場所をクビになり失います
本当に大好きな社長と職場でした
この時は本当に悲しくて、自分のアホさが情けなくて情けなくて人目も憚らず、道路のすみに倒れ込んでしばらく大泣きした事を覚えています。
その経験から僕は自分の親しい人は二度と裏切らないように生きていこうと心に決めています
僕はその時から今も持ち続けている夢があり
それは世界一のファッションデザイナーになる事です
なぜこれを目指すか理由は色々あるのですがこの夢についてはまた今度詳しくお話ししたいと思います。ひとまず飛ばして、、
そのアトリエをクビになった後に、僕は懲りずにに色々なアルバイトをしながら生きるための最低限の日銭を稼ぎながら服作りを一人で続け日本で有数のファッションコンテストに応募し、入選を果たします。
初めてコンテストに出した作品でしたが最終審査に残り、かなり大きなコンテストでしたので件数までは分かりませんがそれなりの応募がある中で10名くらいの中に残りました。
最終審査ではお客さんを呼んでホールを貸し切り制作した服をプロのモデルに着てもらいファッションショーを行います
これに審査員から投票で選ばれれば、賞金とパリやロンドンでの海外留学が決定します
これは芸人でいう、M1グランプリのようなもので、勝てば必ずデザイナーとして箔もつく、当時の僕にはどうしてもほしいタイトルでした
僕はこの時、このチャンスを掴めなければ自分は死んでやる!と言い聞かせながら、当日までになんとか制作を間に合わせようと必死でした
しかし、作業のペース配分を管理できなかった僕は徹夜を繰り返しコンテスト前日に過労で倒れ病院に運ばれ目が覚めたらコンテストは終わっていました。
続く