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夏の昼下がり、後悔と惜別 その1
キア・オラ。ワイタンギ・イブの今宵、初めてのエントリを打ち込むことにした。夕方5時、ギンギンの太陽がテ・アナウの方角へ沈むまでまだ4時間弱ある。
先週末から左の奥の銀歯の元に違和感が出てから二晩が過ぎ、アイブプロフェンなしではどうにもならない程度になった。これでは仕事の運転に支障が出る。月曜の昼に仕事を早く切り上げさせてもらって、町の歯科医に片っ端から電話をかけまくる。どこも予約いっぱい。問い合わせの反応を待つ合間にジムで二時間ほど下半身・体幹に重点を置いたワークアウトをしてから軽く泳ぎ、手短に温浴する。草臥れたけどこの選択には満足した、歯科施術の後にはしばらく激しい運動はできないだろうし、直近の一週間は小指の腹の切り傷が癒えるまで満足に体を動かせずにいたから。しかし空腹とどこへも行きそうにない奥歯の違和感と歯医者の見つからない不安でしょんぼりしながら、藁に縋るような気持ちでニューワールド(スーパーマーケット)へ行く。ちょっと奮発して瓶詰めのフルクリーム、ヨーグルト、メロンを買っても気分はちょっとも上向かない。そこで夕食はぜひSaagを(月のものが近いはず)、ついでにすぐ隣の郵便局へ出向いて豪州の友人二人への包みをとうとう送ってしまおうと次の目的地を定めてオンボロのホンダを飛ばす。店内の立机で二枚の通関手続き書類を埋めて、受付のラテン系のアクセントのある感じのいいお姉さんにいざ郵送料を払わんとする最中に歯科医から電話がかかってくる。やたらな早口に圧倒されつつもこちらから15分後に改めて掛け直すように取り付ける。郵送料の支払いを済ませて、数件隣の南インド料理屋に入る。月曜の夕方の早い時間で客は自分だけ。取り柄も財産もないがつくづく人混みを避けることには長けていると誇らしく思う。窓際に席を取り、羊肉のSaagwalaとロティを頼んで待っている間に例の早口歯科医に電話をかけ直す。無事に翌日の午前に予約が取れてひとまずほっとしながら手帳に日記を書き込むうち、注文を取った若いお姉さんが料理を運んできてくれる。途方もなく良い香りがする。利き手の要領で利き歯があるとしたら、自分の口は左利きであることに今度気がつかされた。刺激を避けるため慣れない右側を総動員して、甘く香ばしいギーのかかった素晴らしく歯触りの良いロティと滑らかで優美な口当たりの緑のソースの組み合わせに舌鼓を打つ。時間をかけて調理されたであろう羊肉は柔らかくしっとりしているけれど、これも注意深く右側のみで咀嚼する。8割はペロリと食べてしまって、残りは丁度バックパックに入っていた小さなシステマのタッパーに移す。しめしめ。味と食感に大満足しつつも、口全体を自由に使えないことで食事後の高揚感は健常時の少なくとも4割減に感じて恐れいった。
ここまで逐一書いてるうちに飽きてきた。どうせだから痛み止めに処方されたコデインをもう一つ飲んでみることにしたけど、とうとうハイは感じなかった。
痛みで朝四時までまんじりともできない長い夜がようやく明ける。バスの乗り継ぎは自分を含め三人の運転手の病欠による欠便で普段と比べ三十分ほど長引いた。自分が遅延の原因であると思うときまりが悪いが背に腹はかえられない。なんとか予約時間の1分前に到着する。入り口前のテーブルには三つのバケツと手洗いの指示書があり、近頃の思考から遠ざかって久しいCOVID-19パンデミックの面影を見た。指示に倣って手を消毒してドアを開ける。待合室には一人掛けの椅子が三方の壁沿いにいくつかとプラスティックのカヴァーが掛かったカウチがあって、一方の隅には小さい子供用に囲われた一角がある。カウチを選んで、初回患者受付書を埋める。痛みが強まるなか、なるだけ行儀よく座って、左手にしたハンカチで頬を抑え、右手で鞄から取り出したキンドルで何年かぶりに二周目に取り掛かった三四郎を開いて気を紛らわそうとする。施術室と待合室を何遍か出入りする歯科医に受付書を手渡す。彼はそれに目を通し、裏面も埋めるようにと促し、大まかな施術のオプションと料金を告げてくる。医療保険はある?十万円近くかな、と軽く言われて、ますます強まる痛みと情けなさとで涙が湧いてきてどうにも止まらない。ハンカチはやはりどんな時にも必須の携行品であることだ。
そうこうするうちに小柄な50代近くと見られる女性の患者さんが出てゆき、間もなく施術室に案内されて治療ユニットに腰をかける。歯科医を待つ間、歯科医の妻であるらしき歯科助手さんに連合王国の方ですかと話しかけると、こちらに移り住んで22年になる、この町は随分変わった、急増した人口にインフラが追い付いてない、夏の間の休暇は他の歯科医と協力して一週間交代でどうにか取ることができるなどと仰る。自分はこの国に来て今年で7年、この町では2年ほど、今は町のバスの運転手をしていると言うと、何度もBless youと言ってくれる。そのうち準備の整ったらしい歯科医がやってきて、目の保護にと透明なプラスチックのグラスを渡される。背もたれが倒されて仰向けになり、口腔内から入れた機器でレントゲンを取る。画像を見るに、銀歯の治療がいい加減(歯科医の言うには日本からの患者にありがちであるとか)であり、細菌による炎症が歯の根近くに膿瘍を作っているのが痛みの原因であると説明される。いわゆる歯周病である。治療オプションを松竹梅で述べればインプラント、ルートカナル治療、抜歯となる。歯科医はざっと松竹のコストを述べて、医療保険のない私に満足に考える間も与えず早速抜歯の準備を始める。麻酔注射と笑気ガスで痛みは感じないようにするので大丈夫とのこと。え、どんな物質なんですかそれは、nitrous oxide?はあ。自分は初めてでもない抜歯自体に恐れは無かったが、ここ10分にも満たない急な展開で30年以上苦楽を共にした奥歯を失ってしまうことの重さに感じ入って「はあ、はあ」と応じることしかできない。歯科助手さんがガスの風味をオレンジ・ミント・後もう一つ(思い出せない)の三つから選ぶようにと促す。ミントと迷った末オレンジにする。右手の上げ下げで希望のガス量を示唆するように、耐え難い痛みを感じたら左手を上げるようにと言われる。背もたれがまた水平になり、鼻に当てられたチューブからガスを吸入しながら麻酔注射の施術が始まる。ワインボトル4分の3ほどの強さで始めるよ、と言う笑気ガスの効果が早速顕れて、凄まじい音と急激に浮遊する感覚に若干の不安を覚え右親指を下げる。歯科医は私のリクエストに反応しながら奥歯の周りに幾つも麻酔を打ち込んでいく。そのうちなんだか故意に雑に扱われているような感じを受けて左の人差し指を何度か上に向ける。麻酔が済んでチューブから一旦解放され、上体を起こしてうがいをするよう促される。この間酔った時の陽気でお喋りな自分がサッと表れ、仕事柄酔っ払うことのできない不満を助手さんに漏らす。彼女は正直そうにアルコールは良いことない、と返す。歯科医はこの短いやりとりに割入って、手早く麻酔の効果を確かめた上で抜歯にかかる。また仰向けになって鼻にチューブを当てられる。今度の笑気ガスはワイングラス一杯ほどに抑えると言う。私は即座に右手を上げた。その効果を感じるまでもなく、抜歯自体は10秒も掛からなかったのでは、呆気なく済んでしまった。抜かれた歯と膿瘍を見せてもらい、持ち帰りたい意を告げる。歯科医は処方する抗生物質と痛み止めを飲むタイミングについて早口で捲し立てる。麻酔と鎮静剤でぼうっとした頭ではとても処理が追いつかない。
こんなたわいない非日常の一角を思い出しながら推敲しているうちに、午後中しぶとく強烈な熱と光を放っていた太陽はあっという間に雲の向こうに沈んでしまったし、つい数日前まで三日月だった月はもう立派な半月で、北の空に登ったと思ったらもう丘の向こうにかかった雲伝いに淡い光を残すばかり。お腹が空いてしまったし本題の後悔についてはまた次に書く気が起きたら書こうかなと思う。ああ、久しぶりに夜更かししてしまった。書いてるうちに本題からすっかり逸れてしまった。