無為の責任
― 未然防止のむつかしさ ―
今もなお、世界では戦争が行われている国がある。それはつまり、人と人が殺し合っているということであり、そんな悲しいことは今すぐにでも止めてほしい。戦争なんてなくなって欲しい。と、心からそう思っている。が、実際だからといって、私は特別戦争をなくすために何かしらの活動をしているかと言われれば、全く何もしていない。本音として心から思っているくせに、他人事のように取扱い、聞かれたら戦争はやめて平和であってほしいと願うが、日常の中で、どれくらいその問題について考えているかと言われれば、ほとんど考えていない。
だから、世界で戦争が終わらないのは私のせいだ。
と、いうことができる。
大庭健の『「責任」ってなに?』という本を読んだ。少し難しく高校生には薦めない。私は、その中にあった「無為の責任」について興味を持った。冒頭の話は無為の責任についての例え話である。つまり、何もしていないということについて責任を問えるのか。本書では、どのような条件を満たしていれば責任が生じるのかを順に追って説明している。難しいけどおもしろい。
さて、この本から派生して私が考えていたことは、まさに教師としての無為の責任である。若い頃によく聞かされた話の一つとして、警察と教師の違いがある。警察は結果処理、教師は未然防止。この先車を乗るようになるとわかるが、警察は一旦停止とかの側で影に隠れ、違反者を呼び止める。いやいや、手前に立っとけよ。この一旦停止の手前に立って、違反を未然に防ぐのが教師なのだ。でも現実の学校内で、未然防止を実行するのは非常に難しい。いじめ、暴力行為、不正行為、等々の問題行動は出来たら未然に防ぎたい。起こってしまったものは仕方ないから早期対応をするのは当然であるが、ないに越したことはないのである。そのためにはそんな諸々の問題行動が起こらないように未然防止に努めたい。ところが、これに関してはマニュアルがない。何をどうすれば何を防ぐことになるのか、その因果関係すらわからない。それに毎日を未然防止のためにアレコレと費やしていれない。実際のところ、何も意識していないというのがリアルである。
ここで、無為の責任である。何も意識していないならば、それはつまり無為ということ。我々の職務上、特別意識していない日常の中、極端な話、生徒が自害でもすれば、それは無為の責任を問われることになるのだろうか。ここで私は法律の話をしているのではない。法的解釈も気になるが、それには知識が足りない。私は自分自身に道義的に問いかけるのである。無為の責任ないんか?自害するまで追い込まれた生徒が事前に放つ何かしらのサインを気付けなかったのか。何かできたことはあったのではないか。
正直、未然防止は非常にむつかしい。常に生徒の活動を見張っているわけではないので、いつどこでどんなことが起こっているのか、わかるわけがない。でも、何もしないってことでOKというわけではない。できることがあるだろう。それはなんだろうか。ということである。教師なんていうのは、公務員全般に言えることでもあるが、成功というのが具体的にない。未然防止に努めても、その成功とは何も起きないことである。これで、いじめが防げたね。という結果も件数も見えてこない。ただ、失敗は明確にたくさんある。生徒指導だけでなく、色々と学校内の仕事も成功はないけど失敗はある。この初期条件だけでも、何かをトライする可能性は単なる損であることがわかる。自分が良かれと思ってやったことが、全く報われることはない。何も起きなくて普通であるからである。となれば、無為な働き方になってしまうのである。それは特別何もしないということである。それにこれは問題行動を未然に防ぐというネガティブな無為だけではない。進路指導も生徒本人が決めたからと、特別関与しないことも無為である。本来もっと良い所にいけていたのに行かなかったと教師の無為で生徒の可能性が減ぜられることがあるのだ。アカンやろ。
神龍知的好奇心向上学研究 第3集 第37号 令和7年1月10日