2023.4.4 英語の“I”という一人称と、日本語の一人称の多様性 − 自己存在と社会存在の間
英語って、もしかして一人称が“I”しかないから、自己存在があれだけ確固なのか。もしくは、因果関係が逆で、あれだけ確固たる自我である“私”という存在は、宗教的ないし哲学的な世界観を背景にして、あの言語の中で一人称ひとつ(I)というのが確立されているのか。
というのも、日本語で“私”って言うと、自分が社会存在になる。一気に、“私”が社会存在になる。だから、本当にプリミティブな、本当に原初的な、本当に素直な自分は、俺であったり、僕であったり、儂であったり。原初に戻ると僕なのかな。僕、儂、俺、どれでもいいけど、やっぱり“私”とは一線を画す。
歴史的には、日本語には拙者とか某とか当方とか、もっといろんな一人称があって、その一人称の幅っていうのが自己をどのように感じ取っているのか、どう存在しているのか、これらが身体性としても影響が出てるんじゃないか。
つまり、I によって引き起こされるその人の存在と、日本語の主語の多様性、一人称の多様性によって司られる存在というのが、変容しているのではないか。