見出し画像

文福茶釜伝承の古刹 群馬県館林市 曹洞宗青龍山茂林寺 私の百寺巡礼301

茂林寺は、室町時代中期の1426年(応永33年)に美濃国の大林正通禅師により開山。1468年(応仁2年)に青柳城主赤井正光(照光)が帰依し寺領8万坪を寄進し伽藍を建立した。



参道には、タヌキの置物が並ぶ土産屋さんが並ぶ。


外からは、旧い巨木が観える。ラカンマキ、オオサワラなど、もりんじでは有名な古木が多い。

銀杏の陰に隠れているのは馬頭観音堂になる。


山門に入るまでに迎えてくれるはタヌキたち。
素晴らしい。


山門、本堂と茅葺屋根が歴史の重みを感じさせる。
というよりも、東京、神奈川などと違い、空襲がなかったことを知るのである。


タヌキの寺としても有名であるが、広い庭は丁寧に保管され、感動する。


当寺は説話で有名な「分福茶釜」ゆかりの寺として知られる。

当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。  元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と 名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、 開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。 その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。  人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから百六十一年の月日が経っていました。

寺の伝説では、こうなっている。
まんが日本昔ばなしなどとは、ちょっと違っているようだ。

この分福。福を分ける、という意味らしい。


舘林は、街の中、至る所、タヌキの像があった。
茂林寺参道の土産屋さんに聞くと、山がないから熊は出ない。その代わり、タヌキは沢山出る、とのことであった。

そして、ぶんぶく茶釜のお話しには、小僧さんが沢山出て来るのだが、ここの寺の敷地、本堂、庫裏の大きさからすると、江戸時代までは禅宗の修行寺としてにぎわっていたのではないか、という気がする。

しかし、風が冷たい。空っ風がキツイ。
と、文句を言う私の前を1匹の生きたタヌキが案内を


ニャー。おミャーさんは文句ばっかり言ってないで、有難いということを覚えるんだミャー。

きっと、ここにいるのは福を分けに現れたタヌキの化身なのだろう。

からっ風 感謝祈願ミャ 茂林寺よ


曹洞宗青龍山茂林寺
群馬県館林市堀工町1570
東武伊勢崎線・茂林寺前駅から徒歩10分


いいなと思ったら応援しよう!