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水と水とが出会うところ~読書記録295~
村上春樹翻訳ライブラリーの1冊で、レイモンド・カーヴァーの詩集だ。
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温かいユーモアと深い愛情、そして打ち消し難い死の予感…詩人カーヴァーの研ぎ澄まされた心象世界を映し出す、円熟期の詩集。
内容説明
人生の混乱から脱し、作家としての名声を得、詩作に還った平穏な日々。そこにはしかし、打ち消しがたい死の予感があった…。喪失感、温かなユーモア、深い愛情、崩落の予兆―短篇小説の核を成す、詩人カーヴァーの心象風景を映し出し、その円熟期の到来を告げる詩集。
レイモンド・カーヴァー
1938年、オレゴン州生まれ。製材所勤務、病院の守衛、教科書編集などの職を転々とするかたわら執筆を始める。77年刊行の短篇集『頼むから静かにしてくれ』が全米図書賞候補、83年刊行の同『大聖堂』が全米図書批評家サークル賞及びピュリッツァー賞候補となる。その独特の味わいの短篇作品はアメリカ文学界に衝撃を与え、後進の作家にも大きな影響を与えた。数々の短篇作品のほか詩人としての作品も多数。88年、肺癌のため死去。
こちらについても、やはり翻訳者の文が魅せる力が大きい。
でも僕にはわからない、本当にわからない。
それが僕の人生であれ、誰の人生であれ(本書より)
これは、やはり村上春樹の文なんだよな、と思ってしまう。
表題にもなっている詩「水と水とが出会うところ」
この感性は素晴らしいし、納得できる。
川が大きな河に流れ込む場所や
河が海と合流する広い河口。
水と水とが出会うところ。
そんな場所は僕の中でいわば
聖域のように際立っている。
一つとして同じ川はない。(本書より)
五木寛之先生の「大河の一滴」、村上春樹氏の「猫を棄てる」にも同じような感覚の言葉があった。
言い換えれば我々は、広大な土地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。(猫を棄てるより)
もしかして、人は感性の似た人を求めるのだろうか。
全ての人が、自分は雨や水の一滴なのだ、なんて思わないだろう。
それにしても、レイモンド・カーヴァーの作品は、アメリカンドリームに敗れたアメリカ人の悲しみを知ってしまう。
50代で、10代のバイトと同じ時給でスーパーで働く労働者の姿などなど。
資本主義の行きつく先は、アメリカを観ればわかるのに、日本政府は何をやっているのだろう。と、勝手に思ってしまうのだった。カーヴァーの作品から行き過ぎた資本主義にやるせない思いを感じるのは、私くらいかもしれないな。