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保土ヶ谷宿に建つ歴史ある寺院 水戸黄門祖母の手植えの柘榴の樹 日蓮宗妙栄山大蓮寺 私の百寺巡礼306


横浜市保土ヶ谷区神戸町にある大蓮寺は日蓮宗のお寺で妙栄山大蓮寺という。慶長13年(1608年)に、日円が日蓮聖人の泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まりである。なお、日円は正保2年(1645年)に寂している。本尊は三宝祖師である。
石段を上ると山門があり、真直ぐに伸びた参道の先に祖師堂があり、その裏手の一段高いところに本堂が建っている。境内からは祖師堂の横を通り、鉄の非常階段のような連絡路を通って本堂のある境内に出る。本堂の大伽藍に対してその参道部分が簡易的であり、寺の構造としては陳腐なものだ。それもそのはずで、かつては祖師堂が本堂で、普通にどこにでもある落ち着いたお寺の境内の構成になっていた。この本堂が建立されたのは昭和37年(1962年)頃であるが、この屋根には飾り瓦が上がっていないのは意外であった。勿論、山門屋根には浪の飾り瓦が上がり、祖師堂屋根には唐獅子の飾り瓦が上がっているが、浪の飾り瓦は奈良でなくては見られないようなデザインのものだ。
手水は亀の形をしている。亀の手水は珍しい

開山は江戸時代初期(1625年)。日蓮上人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まりとのこと。家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木がある。日蓮宗。(保土ケ谷区役所資料歴史を歩いてみようより)


徳川家康の側室であった、お万の方の手植えの柘榴の樹と日蓮聖人の祖師堂。

こちらのお寺は旧東海道沿いにあるが、現在、箱根駅伝で走る国道1号の東海道と違い、とても静かで昔の雰囲気が十分感じられる。
新しいお寺だろうと勝手に思っていたのだが、随分旧く、歴史的にもなかなか興味深いものだ。

庭には、徳川家康の側室であった、お万の方の手植えの柘榴の樹がある。
私は、てっきり、家康の次男である結城秀康の母であるお万の方だろうと思ったのだが、違うようなのだ。

大蓮寺(だいれんじ)は、横浜市保土ケ谷区神戸町にある日蓮宗の寺院。山号は妙栄山西孝院。旧本山は鴨川市の大本山小湊誕生寺、潮師法縁。境内には徳川家康の側室・養珠院(お万の方)のお手植えといわれる柘榴の木がある。

保土ヶ谷区のページには、養珠院と書かれている。
結城秀康の母は、長勝院であるので、私の推理は違った・・・・

長勝院(ちょうしょういん、天文17年(1548年) - 元和5年12月6日(1620年1月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の側室。結城秀康の生母。

養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。養珠夫人ともいう。名は万。

万は駿河国大平村(沼津市大平)の名主、星谷縫殿右衛門に養育される。文禄2年(1593年)三島で徳川家康に目見え、江川英長(江川太郎左衛門)の養女として家康の側室となった。伏見において、慶長7年(1602年)3月7日には頼宣を、同8年(1603年)8月10日には頼房を出産する。
慶長11年(1606年)3月26日の『玉沢手鑑草稿』に記載されている宝倉板本尊銘写によると「蓮華院妙紹日心」とあり、養珠院と称する前は蓮華院と称していたことが確認できる。
義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者日経を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と題目を揮毫し、万に下賜されたという。彼女は家康が死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。
なお、この慶長宗論で日経が襲撃されたとする主張は日蓮宗側の主張のみで、他の浄土宗・武家・判者の高野山は日経が横たわったまま殆ど発言しなかったと記録する。また日遠が駿河国に赴いたのは、日蓮宗関係以外の史料では確認することができないとする指摘がある。
大坂の陣における実兄の三浦為春の武功に、徳川家康が喜んでいることを万が為春に知らせた古文書が残る。歴史的な内容が確認できる唯一のものだが、年月日、文書の形態・宛所等も不明で現蔵機関名も記されていない。三浦為春はのちに万の子である徳川頼宣に附属され、紀州藩の御附家老となった。
元和2年(1616年)4月22日、蓮華院妙昭日心から養珠院妙昭日心に法号を変えた(『本光国師日記』)。
承応2年(1653年)、万は死去した。墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。法号は養珠院殿妙紹日心大姉。杉並区理性寺にも分骨されている。


紀州徳川家・水戸徳川家。どちらも、秀忠の子孫が無くなった後に、江戸幕府の跡継ぎとなった家柄だ。というか、水戸黄門さまの祖母じゃあないか!

浄土宗の門徒であった家康は日蓮宗を嫌っており、日遠を殺そうとしたのだが、お万の方の決死の覚悟で思いとどまったのか。
家康ほど多くの側室を持った大名なら、たかが側室の1人くらい、と思うのでは?ではなく、それだけの魅力を持った、家康にとって大切な女性なのだったのだろう。
そのお万の方の信仰をこのお寺に来て知ることができ、感謝であった。

日蓮宗妙栄山大蓮寺
横浜市保土ケ谷区神戸町98
横須賀線・保土ヶ谷駅より徒歩5分


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