表面張力
「あ、これはもう来ないやつだ。って思ったねあのときは」
週末のバイト終わり、ロッカーの前で先輩が微かな苦笑いを浮かべながら口を開けた。
「あれ、電車でも止まってるのかな?って思ったんだけど、電話も来ないままその日は現れなくて。その次の日も同じシフトだったんだけど同じように来なくてね。」
僕はと言えば、先輩の顔に目を向けず適当に相槌をうっていたのだが、ふと気になって先輩にこう返した。
「随分と失礼ですね。その人、前からそんな感じだったんですか?」
すると先輩は少し考えるような仕草をした後、重たげにこう言った。
「いや、随分と温厚でね。俺自身、怒ったとこ見たことないぐらい優しいやつだったよ。お客さんの評判もよくてね。だからあいつが来なくなったときはショックだったなあ。なんで来なくなっちまったんだよ。って思ってた。ずっと。」
「せめて辞めることぐらい伝えて欲しかったな。」
ロッカーの扉を開けながら先輩は目を落としながらはにかむように笑った。
僕は気まずい空気にしてしまったことを心の中で謝りながら、先輩を眺めていた。
会社に来なくなった。つまり、逃げてしまったのだ。その人は。
僕は昔、親に半ば強引にピアノ教室に入れられていた。やりたくもないものを触らされ、ピアノ教室の日が大嫌いだった。あと、親が怖くて、どうしようもなかった。うまく弾けないと怒られたし。
ピアノ教室から帰ってきて、親にピアノを弾いてみせて、なんでそんなにできないの?と言われたときは心の底から怒ってたと思う。それと同時に辛くて、悲しかった。認められなくてやるせない感情で頭が埋められた。
だからなんとなく察しがついた。その人は仕事が嫌で嫌で苦しかったんだな、と。
いくら温厚でも他人に対する、不満とか怒りはあるだろう。もしかしたらその類の感情が無い人間も存在しているかもしれないが。
その感情を溜め込みすぎるといつか爆発する。水の表面張力のように、耐えに耐えて、耐え切れずに溢れ出す。
限界を超えて、耐え切れずに溢れているので少なくとも正常ではいられないだろう。だからその人は断りもなしに音信不通になった。と僕は考えた。
喉がなった。自分もこうなるんじゃないかと想像してしまった。学校、バイト先、将来の職場。可能性は十二分にある。
逃げることは悪くない。だが、自分を壊してしまう前、溢れ出すギリギリのラインのときに気づくことは大事だ。
気づけないと、溢れたときにまわりに広がって対処ができない。気づくことができれば、蓋をするなり、溜まっているものを吐き出すなり対処ができる。
まわりに広がったものがシミになって、その後の人生に居残り続けるかもしれない。だから気づくことは必要不可欠で重要なことだ。
自信がなかった。そう考えたとき、溢れ出すラインに気づくことが想像できなかった。手に残ったのは将来の見通しのつかない不安と焦りだけだった。
だからその日は嫌な感情が顔を覗かせる前に布団に潜り込んで眠ることにした。