創造の源泉は、感謝その6 ダンススクールオーディションとその後(後編)
こんにちは!連日の良いお天気です。みなさんどのようなお正月だったでしょうか。
時代の流れという大きな変化、その中での日々の小さな変化。スピードも日に日に増してく中、様々な変化にしなやかに対応できる心と身体を作っていきたいですね。今、起きていることを感覚的に掴み、意識の在り方を進んで変えていければ、その中にも楽しさを発見できるのではと。日常に小さな感動を散りばめ、素敵な毎日となりますよう願っています。
それでは、ダンススクールのオーディションを受けるまでのあれこれ、後編を綴ります。
最初に、目指すダンススクールには一般向けのビギナークラスが充実していたので、少しずつ受け始めました。今はすっかり刷新されましたが、古い煉瓦造りの建物の中に入ると、迷路のようにスタジオがたくさん!カフェ、キャンティーンがあって、スクールの生徒さんらしき人たちもくつろいでいました。まず驚いたのは、スタジオの場所を聞いた時でも、ちょっとした質問をした時でも、皆非常に物腰柔らかく話し方もソフトで、こんなに繊細な優しい人たちっているのかしら?と思ったことです。ダンサーになるような方々は、きっととても繊細なのだなあと、印象的でした。今ならば、こういったことも全部踊りに出るしなあと思うのですが。
レッスンは、ストレッチから始めバーレッスン、毎回ワクワクドキドキ新鮮でした。ある日、その日の先生に(スクールはダンスカンパニーも有していて、所属ダンサーでした。)オーディションのことを話してみました。もう6月にはなっていたし、9月からの新学期に間に合うのかとの焦りもありましたが、帰って来た言葉はやはりシンプルで忌憚のないものでした。
「あら!それならまだ最後のオーディションが8月にあるから間に合うわよ。ぜひ受けてみて!」背中に優しく手をかけて、諭すように勧めてくれました。経験がないために戸惑っているのを感じた上での、裏のない真摯な言葉なのを感じました。こうして、これまでの経験は別として、チャンスに対し素直に門戸が開かれているということを、この後も数多く経験することになります。教育に関しても考え方が違うのかもしれないと思いながら、ここでも背中を押されて申し込みました!送られてきたオーディションに関するお知らせが、下のペーパーです。インタビューも、メディカルチェックもあります。
指針がしっかり記されていて分かりやすいですね。わー、ソロがある!ソロによって、出願者の想像力を見たり、動きの質をチェックしたりと。しかも1分半以内という短いもの。これだけでわかっちゃうんですね!今となってはそれも理解できるようになりましたが、どうしよう、曲を選ばなきゃ。バレエも一時期に少ししか習ったことのない私。
こちらが選んだ曲です。今と好みは変わらず、ベリーダンサーになってからも、Deep Forestの曲をよく踊りました。オーディション前は、公園など屋外で練習しました。練習といっても、基礎がないのでただ動くだけ。。。
当日は、映画やドラマで見るように、テーブルの向こう側にずらりと先生方が並んで座っていらっしゃって、緊張なんていうものではなく、まるで戦場に出陣するような決死の面持ちで入っていったと思いますが、その後の一部始終を見ていた同じくオーディション参加者の日本人の女の子がいました。
会場だったスタジオ10。
私はいわゆるバレエなどの踊り方を知らないので、1分半をただ音楽に乗って走っていただけ。思い出しても赤面ものですが、それでも受けるしかなかったです。それから、オーディションが全て終わると、校長室を訪ねていきました。「ダンスが最後の望みだから、ここで学ばせてほしい。」と、ほとんど直訴ではないですか。先生も困ったかもしれません。散々なオーディションでしたが、メディカルチェックも問題なく、台の上に仰向けに寝て、足や足首の状態やらチェックを受け、通過した後、なんと家に届いたのは合格通知でした。卒業と同時に大学の学位も取得できるという3年間の専門学校、次の学年に進めるかどうかはその後の状況次第という条件付きでしたが、信じられないような嬉しい気持ちでいっぱいでした。
この拙いオーディションを、スタジオの円窓から見ていたもう一人の日本人の女の子は、のちに親友になりましたが、(既に海外公演も経験するほどの歌えて踊れるダンサーだった彼女は文句なく合格!)私が話しかけにくい雰囲気だったので、話してもらえないのではと思ったとか。それでも、日本人同士なんとなく自己紹介をし、私が合格したと聞いた時には、「それは、あんたを取った学校がエライ!!」と妙に感動していました。笑 「私じゃなくて、褒めるのそっち???」と思いましたが。笑 この記事を書きながら、彼女のことが懐かしく、いても立ってもいられなくなって久々に電話、この時の発言について話すと、「そんなこと言ったっけ?すごい上から目線だよねー。ごめんごめん!笑」とすっかり忘れていました。
とにかく、信じられない気持ちで、どうにかこうにか学校に通えることになり、そこで残るは両親の説得です。
入学前の夏にロンドンを訪れて来た両親を、コッツウォルズ地方に誘い、あろうことか宿泊したのが周囲に何もない上記のような広大な敷地のお屋敷だったことが打撃となりました。夕食後に部屋へ戻り、実は。。。と、留学相談所で勧められたそのままに合格通知書を見せつつ、プロのダンサーになりたい旨を打ち明けると、「そんなことのために大学に行かせたのではない。」とまず母が泣いてしまいました。父も苦々しい思いだったと思います。あいにくお屋敷とはいえ田舎の一軒家で逃げ場が一切なく、一晩中互いに沈痛な面持ちで過ごすことになり、せめてロンドンで打ち明けて、どこかパブにでも出て一息つければ良かったのにと、心から後悔しました。
そんなこんなで波乱万丈、結局は渋々認めざるを得なかった両親の気持ちを背負って、私のダンサーを目指す第一歩が始まりました。両親は、私によって考えを変え、大きく変化しなければならず大変だったと思います。今では一番のファンとなり、毎回のショーや公演を見に来ては応援してくれていますので、そうなるまではいろんな気持ちを味わったことでしょうね。とにかく、豪華なマナーハウスでのこの一夜は記憶に残りました。
London Contemporary Dance School
入学した専門学校は、無論皆一様にダンスの基礎があり、プロになるには何かがあと少し足りない、というダンサーの卵たちが生徒として通っていました。私は例外中の例外!中でも才能ある生徒たちは存在感があり、先生たちが期待をかけているのが分かって、そうした優秀なダンサーたちと同じバーにつかまって(ぶら下がって?!)毎回生演奏のピアノ伴奏でレッスンを受けているだけで、私はもう幸せで仕方がなかったのです。ここにいられるだけで、という。。。全く出来ないのにもかかわらず、思い返しても幸せで。世界のあちこちでオーディションを行い、生徒数は一学年50名以下。私の入った基礎クラスは、皆信じられないほど性格が良く素直、性格で選んでいるのかなと思うほど。私のテクニックのなさを馬鹿にするような人は一人もなく、いつでも励ましてくれました。学校外へも誘ってくれ、しょっちゅうお茶をし、自宅に呼んでくれたり、市内の牧場で遊んだりと仲良しに。のちにプロになるにつれ、ダンサーは性格の良さも重要なことを思い知っていくのですが、おかげで卑屈になることなく、素直な面々に囲まれ、楽しく学んでいきました。
とはいえ、うら若いダンサーの卵たち、元々繊細である上に過酷な世界でもあるので、自信をなくしたり自己否定の気持ちでいっぱいになり、いつの間にかいなくなってしまうことがあるとのことで、学校側でも対策が講じられていました。毎月必ず指導の先生の部屋のドアに貼られているスケジュール表の空いたところに名前を書き込み、面談をしなければならない仕組みが出来上がっていました。「元気?この頃はどうしている?」といった他愛ない話をするだけなのですが、これが安全網となっており、そういったところは素晴らしいと思いました。本当に、ダンサーの生活は過酷ですものね。
以上、持っていたものは情熱しかないという、プロダンサーを目指す雰囲気に酔うところから始まった私ですが、運命の輪は巡り、のちに恩師との一度ならぬ再会という恵みも受けました。それもまたいつか。そうして世の中が落ち着いたらいつか、久しぶりにビギナーのオープンクラスを受けたいです!
それではまた!!