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#01 だれでもできる「ツボ療法」/ はじめに / 本書で使われている用語の解説


はじめに

最近の日本人は健康に大変な関心を寄せています。

それは自然食品を食べる、健康器具を買う、栄養剤をよく飲む、まめに医者にかかるなどに現われていますが、身近に起きた体の異常に対処することが、いまひとつ不得手ではないでしょうか。

現代の社会のしくみはなかなか便利になっていて、ちょっとのケガでも救急車を呼ぶことができ、お金さえあればどんな医療も受けることができるといっても過言ではないでしょう。

しかしよく考えてみると、これらはすべてこの社会に住んでいるという前提があってのことで、いったん状況が変われば、自分の体のことを自分の家庭で処理するのは、かなり難しいのではないでしょうか。

昔は各家庭に艾が常備されていて、健康を保つために三里さんり の灸を足にすえたりしたものです。

当時の生活の知恵は病気にならないようにすることが第一であったと思われますが、現代もそれには変わりがないものの、あまりにも忙しく、つい安易に薬を飲む、あるいは検査を受けるなどでその場をしのぎ、自分の体をじっくり観察することができないでいるのではないでしょうか。

本書ではそのような現代の背景を頭に描いて、東洋医学の立場から、とくに積聚 しゃくじゅ治療と称する鍼灸はりきゅう治療の立場から、病気の状態をどのようにみたらよいか、また体に異常が起きたとき、とりあえずどのようなことが一般の人でもできるのか、ということをまとめたものです。

従来このような本がないわけではありませんが、本書の特徴として、病名をほとんど用いていないこと、どの症状にも基本治療を重要視していること、そのため使う経穴つぼの数が非常に少ないことなどをあげることができます。

病名を使わないで病気を解釈するのは東洋的な方法ですが、その背景に陰陽観などの考え方があるものの、そのような言葉は使っていません。また基本治療はいわゆる自然治癒力を増すもので、日常の軽い疲れにもいつも応用できるものです。

これらのことに慣れてきますと、病気にかかりにくくなり、また体のわずかな変調を見抜くことができるようになります。

東洋的な考え方の基礎は一人ひとりが宇宙と一体であるところにありますが、病気を診ることによってその一端でも理解していただければ著者の本望とするところです。

なお本書は、関東鍼灸専門学校第十期生の正岡慧子女史から経林書房を紹介されてできあがったものです。思いがけずもこのような出版の機会を与えていただき、懇切な助言をいただいたことに心から感謝申しあげます。

1988年7月1日
小林詔司


プロローグ 本書で使われている用語の解説

1 「気」とはどんなことか

この本では、まず「人間は気の集まったものである」という前提にたって話を進めています。

それは、東洋医学の根底が気という概念に寄っているからですが、また鍼灸を使っていろいろな病人に接するときに、気という考え方を使って症状を診ると非常に把握しやすいという面をもっているからです。

現代の医学の方法では体を際限なく細分化して一つの細胞の異常を問題とすることになりますが、どんなに細分化しても生きている体は結局一つで、鍼灸などで治療をするときにはいつもこの一つを対象としていることは間違いないことです。

そのようなときに、体を一つとして把握する気の概念は役にたちます。

この場合の気とは、一般に思われている何か目に見えない力というだけの意味ではなく、体をつくっているものすべてが気である、体は気でできている、というものです。

ですから気は、目にも見えるのです。

もっと正確にいえば、気には目に見えるものと見えないものがある、ということになります。

これは中国の宋の時代に論議された一つの考え方でもありますが、この世の中に存在するものはただ気というものが形を変えただけのことである、というものです。

つまり目に見えない気体の気があり、目に見える液体の気があり、さらに固体の気がある、と理解できます。

このような考え方を人体にも当てはめ、体の表面は柔らかく、筋肉などはそれに次ぎ、さらに骨という硬い気となる、またその間を血液・リンパなどの液性の気が流れる、とするものです。

2 「先天の気」・「後天の気」とはどんなことか

東洋の先人達は人の成立ちを神(ゴッド)によるとせず、気が集まって形をつくり生きているとしました。

ゴッドに相当する大本の親は別にして、人には必ずその親がいますが、その人を生みだす親の力というものを先天の気といいます。これはその人の遺伝的な要素、素質、体格、性格などのすべての背景となる言葉です。

後天の気というのは、先天の気を基にしてその人が生まれてから後に取りいれるすべての気を指します。

つまり後天の気とは、まず呼吸によって取りいれる空気、そして食事として口から取りいれるすべての食べ物、さらに社会環境から受ける精神的な刺激などを含みます。

どのような後天の気を得ることができるか、それは先天の気の状態にまず左右されます。

たとえば消化力が強いという先天の気をもっていればその人は食事から十分な後天の気を得ることができるという具合です。

十分な後天の気を得ることができる人は、親となったとき、その子供に十分な先天の気を与えることができると考えられます。

このようにして先天の気と後天の気は、互いに影響しあっているものです。

3 「気の密度」とはどんなことか

地球上の生物が気でできていると考えた場合、いろいろな生物が存在するのは生物によって気の密度が違うからだ、という見方をします。

気の密度が高い生物と低い生物があり、気の密度が高いものは気の在り方が複雑だ、と考えることができます。

さて、食べ物の気の密度についてみてみましょう。

植物は大気や土の中の気そのものを基にして生きているものだけに、一般に植物を構成している気の密度はかなり緩いとみることができ、消化するときの体の負担は比較的少ないとみます。

消化とは食べたものを気の状態に戻すことですから、植物性の食べ物は比較的気の状態に戻しやすい、ということができます。

陸上の動物は、大気を吸ってはいるものの、植物や動物を餌にして生きているものだけに気の密度が高く、植物よりも複雑な気の状態になっている、とみることができ、その消化には植物よりも努力がいる、と考えることができます。

水の中の動物つまり魚類は、水中の気、つまりプランクトン、海草、魚類などを餌とするもので、陸上の哺乳動物などに比べてとり入れるものの気の密度は緩く、それを食べた人間の消化の負担もそれだけ少ないといえます。

このようなことから一般的に、食べ物としては植物、魚、陸上の動物の順に消化しにくい、ということができます。

また植物でも根や実の部分は、養分を蓄えているところだけに気の密度は高く、それだけ消化しにくいと考えます。

もちろん水気の多いものは気の密度は低く、締まったものは高いといえます。

このことから大根がごぼうやニンジンよりも消化しやすいことになり、料理に時間のかかるもの、つまり火が通りにくいものほど気の密度が高いことになります。いいかえれば、火を通せば食べ物の気の密度は緩む、といえます。

魚類では、一般に大きいものほどとり入れる餌の気の状態は複雑で、それだけ消化しにくいものです。

また赤みの強いところほど気の密度は高い、とみることができます。このことから、カレイ、ヒラメよりも、ブリ、マグロの方が消化しにくいことになります。

また植物の実と同じように、魚の卵類、例えばイクラやスジコなども消化しにくいものです。

動物の卵、牛乳などの乳製品も、同様に考えることができます。

料理に酢や塩を使うことは、それだけ食べものの気の密度を強めることになり、消化しにくいことになります。またそれだけに腐りにくいのです。このような料理は、病人や病みあがりの状態にはよくないことになります。

4 「気の動き」とはどんなことか

体は、骨、皮膚をとわず気でつくられているとみますが、わたしたちが生きているということは気そのものが生きていることであって、それは体の中、外をとわず常に気が動いていることを示しています。

また生命のあるものは温かいものですが、これは気の動きが熱をつくっている、と考えることができます。

さらに適度に体を使うことは、気の動きを活発にし体を暖め、生命力を旺盛にします。

このとき気の動きは高ぶっている、といえます。

自分の方から進んで仕事をする、スポーツをして手足を動かすなどは、絶対に必要なことです。

食べ物も体の消化力に応じた物であれば、気の動きを活発にし、体を暖めます。

アルコール飲料は直接体を暖めますが、また温かく料理をした食事は体も暖めます。

温かい物は体への吸収がよいもので、それだけ気の動きを活発にすると考えます。

風呂に入ると体が暖まるような印象をもちますが、スポーツをした後など動きが活発になっている気を静める効果はあっても、力のない気を芯から暖める効果はありません。

気の動きを静めたり押えたりするものは、気持ちが進まない仕事、過労、気の乗らないあるいは不愉快な話題です。

ですから、就寝前など体の動きが静まるときは食べたものを消化しにくい状況で、そんなときいつも冷たい食べ物や飲物をとったり暴食をすることはよくないのです。

5 「五臓の気」とはどんなことか

俗に五臓六腑という言葉がありますが、東洋医学でいう臓という言葉はかなり複雑です。

言葉の上では肝・心・脾・肺・腎さらに心包などという臓があり、その実体性は諸説ふんぷんといっていいでしょう。

少なくともはっきりしていることは、現代の医学でいう臓器よりも大きな広い概念であるということです。

たとえば腎といえば、もちろん泌尿器としての腎臓の作用も含むもので、なおかつ生殖作用も意味し、あるいは下腹部のことを指し、さらにあの人は腎のタイプだなどといいます。

他の臓の表現にも同じようにそれぞれの特徴的な内容がありますが、いずれも現代の医学でいう臓器そのものだけを指すことはないのです。

ところでこの本で五臓の気というときには、いつも五領域に分けた腹部の状態を意味します。

つまり五臓の気に力があるといえば腹部の状態が安定していることで、五臓の気が不安定であるといえば、五領域のどこかにしゃくがあることを示しています。

ここでいう積とは腹部の痛みと硬さ、そして動気を意味する言葉ですが、たとえば、ただ腎の積があるとしてもこれがすぐ腎あるいは腎臓が悪いということにはつながらないことも注意が必要です。

つまり腹部の腎と名付けたところの異常を示しているのが腎積で、そこにそのような積で生じるのは、またいろいろな理由が考えられるからです。

6 「気のめぐり」とはどんなことか

体の気は、上下左右、あるいは表へも中へも、まんべんなくめぐっているのが正常です。

気の動きは激しくなると、その部分は熱くなり、いわゆる熱をもった状態になります。

また、温かいものは上の方へと昇っていく傾向をもちますが、体の場合も熱のバランスを保つには、熱という動きの激しい気がやたらに上の方へばかり昇っていかないように、それを引き下げる力がいつも必要です。

熱という気を調節するのが五臓の力ですが、これは心臓や腎臓などの正常な働きもさることながら、東洋医学では腹部の状態である、とします。腹部に圧痛やしこり(しゃく)のないのが正常です。

腹部の状態を正常にするには、腹部の積を取りさることがまず必要なのです。

腹部の積をつくらないようにするには精神的に安定していることが是非必要ですが、なかなかその域に達するのは難しいことです。そのため、できた積をそれ以上悪くしないことが当面の目標となります。

例えば好きなものばかりを食べるのは、五臓の働きに偏りが生じて熱の調節力が弱まり、その結果、気の動きがとくに上の方に偏って活発になることでよくありません。

まず睡眠、そしてこの本で述べる基本的な治療をしながら、食事のとりかたなどに注意して生活を見直すことです。

生活の基本は、体の気が上に昇りすぎる(このときは足腰が冷えてきます)、体表が熱くなる(このときは腹部の力が落ちています)など、体の気のあり方が偏らないようにすることです。

7 「冷え」とはどんなことか

生きているものにとって、一番の大敵は冷えです。

つまり生きているということは体が温かいということですから、それに反する「冷える」というのは、いわば生命に逆らうことです。

この生命は太陽から来る、といっても過言ではないでしょう。

しかしあまりにも熱いのも生命を失わせます。

熱さを適度に調節しているのが冷えということになりますが、人体においてはなかなかこの熱の調節が難しく、それが病気となって現れていると考えることができます。

ところで人間の体は、夏と冬ではその気の状態は違います。

夏に部屋を二十五度にすればかなり涼しいと感じますが、冬ではかなり温かい温度です。

これは人間の体の気の状態が季節によって違うことを示していますが、簡単にいえば、冬は皮膚が締まり、夏は皮膚が開いていると考えるからです。

とうぜん皮膚だけが締まったり開いたりするものではありませんから、体全体がそれに応じて緩んだり緊張したりしているということです。

つまり夏は体全体が緩んでいるものですから、それだけ体は冷えやすい、冷えないように注意してし過ぎることはないということがいえます。

夏の方が体の調節は難しいのです。

最後に、以上のような気の考え方や冷えの考え方を頭において、症状の見方をつかんでおきましょう。

病気の一つの見方は、気がどれだけ緩んでいるか締まっているか、ということです。

またその影響が、表面の皮層の段階かあるいは深い骨の段階にまで至っているかということです。

次の観点は、熱と冷えの関係です。

熱はもともと体全体にゆきわたっているものですが、それを調節する五臓の気の力が落ちると、熱の性質として熱は上の方に偏ります。

その分下の方は冷えることになりますが、熱と冷えの分離が顕著なほど症状は重いといえます。

またその状態が動かないものほどよくないことです。

人間の体は二本足、両手という構造ですから、右ききや顔の左右差はあっても基本的な気の働きは左右対称になっています。

もしこの左右の対称性が大きく崩れるようであれば、病気はそれだけ重いといえます。

たとえば半身不随のような症状では、それがはっきりしています。

どんな病気にかかったかと病名ばかりを気にするより、このようにどのような状態に体があるかということをいわば立体的にみて、その変化の様子をみる習慣ができれば、それほど病気に対して慌てることはないと思われます。

もちろん本書で紹介する治療法はそのような観点に応じた方法で、時間をかけて慣れればかなり応用のきくものです。


#00 目 次

#02 1 基本治療の方法・手順 1*治療に使う道具と扱い方 >>