Me llamo Kazuki
マダガスカルの玄関口「イヴァト国際空港」から自転車で5分。
投宿した宿には、この長い旅の中でも指折りの恵まれたWi-Fi環境があった。
僕はアウトプットが極端に苦手だ。
旅と言えばのブログもやっていたが書き切った試しがない。
インスタも滞りがち。
昨年はyoutubeを頑張ってみたものの、自転車を漕ぐ事との両立がうまくいかなかった。(少しずつは更新していきたい)
南米のアンデスやアフリカではWi-Fi環境が無かったり、悪いのをいいことに目を背けてきた。
しかし、こんなサクサクな通信環境を前に「何か」をしたくなった。
その「何か」はどうやら文章を書きたいという衝動のようで。
ブログよりもラフに、インスタよりはしっかりと書くのにnoteなんてよさそうでは?と思い立ち始めてみた次第である。
ところでタイトルの「Me llamo Kazuki」とは、スペイン語で「私はかずきです」という意味だ。
この1年半の大半をスペイン語圏で生活していたので、何度も何度も使ったフレーズ。
初めての投稿なので簡単に自己紹介でもしていこうと思う。
少し長いかもしれませんが、ご覧いただけると幸いです。
初めての海外
初めての海外については記憶がない。なぜかって?1歳半の出来事など覚えてるわけあらへん。なので僕が知っているのは全て母から聞いた話だけ。
両親が結婚する以前のこと、母は海外インターンシップでアメリカのユタ州に1年間住んでいた。「その時のホストファミリーに僕を会わせること」が記念すべき初海外での目的だったらしい。
この旅行は僕が生まれた時から計画されていたものかと思いきや、実はそうでは無かったらしい。僕が生まれた当初は、「子どもができたら海外は難しいかもしれない」と母は考えていたそうだ。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が起こった。西宮に住んでいたこともあり死を覚悟するほどの揺れだったそうだ。この震災がもたらした恐怖と悲劇については周知の通りだろう。
それを機に母は「できることはなんでもやれるうちにやらないと」と思い立ち、かくして僕は1歳半でアメリカの大地を踏むのであった。
2度目の海外と9.11テロ
2度目の海外もアメリカだった。『ホーム・アローン2』で主人公ケビンが迷子になった「シカゴ・オヘア国際空港」や、泥棒が狙った玩具屋のモデルとされるお店へ行ったこと。街中にリスがいたこと。祖父の取引相手であり友人の家に祖父が亡くなった報告をしに行ったら、アホみたいにでかいロブスターが出てきたこと。そしてワールドトレードセンターをバックに記念写真を撮った事が印象に残っている。なぜならこの時は小学1年生だったから。
その年の9月に世界を揺るがす大事件が起こった。「9.11 同時多発テロ」
多くの日本人にとっても大ニュースではあるものの、あくまでテレビの中の、遠い国の出来事だったのではないかと思う。しかし僕にとっては自分が訪れた場所での出来事で。それはあまりにも衝撃的で。祖父母や母の知人が海外から家にやってきたりと、既に平均よりも身近であった「海外」がさらに近く感じた出来事でした。
漠然と海外で過ごすものと考えていた
はっきりといつから思っていたかは覚えていない。というかむしろそれぐらい、意識しないくらい自然発生的に「いつか海外で時間を過ごす」と小学生のうちから思っていた。
幼少期からの海外経験に加え、杉原千畝や野口英世といった海外で活躍した偉人の伝記や、シャーロックホームズやダレンシャンなど海外の小説を読み漁り、MLBで活躍するイチロー選手や田口壮選手をテレビで日々観戦し、ビートルズやビリージョエルを聴く。日本に居ながらにして常に海外は身近だった。
3度目のアメリカで起こったこと
中学3年生の夏休み。人生3度目のアメリカ。ワシントンD.C.観光とイチロー選手を見に行くことが目的だった。D.C.から始まったこの旅行を僕は楽しむことができなかった。
ホワイトハウス。世界を動かす政治の中心のすぐそばで自分よりも年下と思しき物乞いに出会った。リンカーン記念堂、スミソニアン。観光地のキラキラした景色に魅せられていた僕の目は、その瞬間からこの世界の影の部分に吸い寄せられるようになった。
ボルチモア郊外の貧困街、NYやLAの路上生活者。そこにいる人たちと目が合う度に旅行していることが罪のような感覚に襲われた。そんな現実から逃れたくて、ウォークマンでずっと音楽を聴いていた。
帰国してからもずっとモヤモヤしていた。そんな中、学校でも色んな問題が起こって学校に行けなくなった。小学校高学年や中学生時代から「貧困地域」「子ども」と関わる何かをしたいと思っていた。だからこそワシントンD.C.での出来事は一大事だった。そんな中での学校での色々に僕の処理能力は耐えられなかった。この世界の全てがどうでもいいと思うようになってしまった。
やりたいことってなんだ
なんだかんだありながらも高校には進学するも、出席日数ギリギリくらいしか通っていなかった。この世には自分の無力さを感じた時に、それを糧に前向きに進んで行ける人たちがいる。僕は真逆だった。学校での出来事と合わせてすっかり自信を失った。自信を失うと同時に色んな物事への興味も失っていた。
それでも自分なりにできることを考えて、UNHCRを通して継続的に寄付をしたり、Newsweekを購読して少しでも世界情勢を勉強したりと、なんとか手探りに進んで行こうという矢先、受験期に病気になった。勉強できる状況じゃなくなってしまった。
旅する日々のはじまり
そこから紆余曲折あり日本を旅することになった。海外にばかり目を向けて日本のことはあまり知らない。やりたい事も不明瞭になっていた中で正に自分探しとも言えよう。
半年かけて自転車で日本一周をすると旅立ったものの、ただ移動するだけの日々。そんな中で出会った方からの助言を受け、日本一周には拘らず旅の速度を緩めて各地を知る旅へと変化していった。その延長で各地で住み、働くように。
中国や東南アジアへは短期で何度か訪れるも、気がついたら海外なんて忘れて日本での日々が流れていく。それでも幼少期から持ち続けていた海外への興味はそう簡単に消えるものではなかった。
自分にはできないに嫌気がさして
世界一周や長期バックパッカー、ワーキングホリデーなんかに興味があったかというと正直そうでもなく。やりたい事が不明瞭になって以降、海外に住んで働くビジョンも見えない。
とはいえ、色んな国や地域を見たい・知りたいと思っていたのにやらないままにする事。そして18歳で初めて自転車旅をした時に世界を自転車で旅したという日本人に出会った際、考えるまでもなく「自分にはできない」と決めつけてしまった事。この2つがずっと心に懸かっていた。
そんなわけで2019年。
神戸港から上海へと渡ったのでした。
書き記すということ
思い返せば2012年にペダルを漕ぎ始めて以来、様々な手段で細く長く旅をしてきた。その間、日記を書いたり、写真や動画を撮り溜めるばかりで自分の身の回りにばかり溜まってそろそろ溺れてしまいそう。
せっかく見て触れて感じたあれこれ。少しは書き記して残していきたい。
旅をするにあたって参考にさせてもらったブログをはじめとした読み物のように、とは中々いかないかと思いますが、多少は誰かの旅のきっかけやいっときの暇つぶしにでもなれば嬉しいなと思っております。
どうぞよろしくお願いします!