非日常感~コロナウィルスとの戦争~
2020年4月7日19時から安倍首相の会見があると携帯に通知が来た。その前日から言われていた緊急事態宣言が発令され、テレビ放送では各局で宣言が生中継されたらしい。
今回の緊急事態宣言だけでないが、約一ヶ月前の2月末頃の自粛要請から社会の風向きは一気に変わってきた。通勤電車の混み具合もこの時点からがらっと少なくなったし、土日の電車や店などからも人はかなり少なくなったように感じる。3月の三連休で人が増えたときには驚きを感じたくらいだ。
ニュースも連日コロナ一色。店ではマスクだけでなく、食料も一時だが、買えなくなることがあった。
この非日常感はなかなか経験できるものではない。例えは適切ではないし、軽々しく言うべきではないのかもしれないが、戦争というのはこのような非日常感があるのではないだろうか。
我々は今、コロナウィルスに攻められているのだ。2011年にも薄々気づいていたことだが、政府の判断は後手を踏み続けた。与党も野党もたいして変わらず、その判断の遅さは50歩100歩。中国という他国がかなり攻められていた1月下旬でさえ、国会では与党と野党がつまらない足の引張り合いをしていたと記憶している。
これでは他国から侵略を受けたときも同じ結果になるだろう。大きな損失を被り、その後でようやく動き出すのだ。国民は少しでも自分と異なる意見を見つけると、非国民として叩きまくる。経済は停滞し、人々の先行きも見通しはたたない。スポーツに限らず、多くのイベントは軒並み中止、延期。オリンピックでさえ、一年の延期が正式に決まった。
そう書くと非常に暗い話題となってしまうが、このコロナウイルスの非日常感は様々なことに気づく、または再認識する良いきっかけと捉えることもできる。
政治家の頼りなさは言うに及ばず。その政治家を選ぶ国民もデマに翻弄される人がいる。テレワークなんてできないと言っていた会社は実は本気を出せばできることが明らかとなった。中国が自国の統計を操る恐ろしさと、トップダウンで物事をすすめていく脅威のスピードには舌を巻いた。そして米中の子供のような意地の張合い。アメリカ(のみではないが)のシンクタンクというものの予想の拙さ、数字の桁すら合わないことには初めて気づかされた。https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20200306-00166303/
このコロナウイルスからの侵略は一ヶ月で終わらない。あくまで日本が選択した緊急事態宣言がとりあえず一ヶ月なだけだ。国民はもう、そのことには気付いて長期戦を覚悟している。どこかのIT長者にバカ呼ばわりされなくとも。あとはそのコロナウイルスの対応にどこまで強弱をつけるか、そしてバランスを考えていくかなのだ。
強いものが生き残るのではない、変化に対応できたものが生き残るのだ、との有名な言葉がある。コロナウィルスは我々に様々な変化を要求してくるだろう。
2011年以降、各人の差はあれど、防災意識は変わった。2020年以降、今度は衛生意識が変わってくるのだろう。この変化を自分にとって良い変化にしなければならない。
非日常というものは様々なことの本質が問われる。その非日常に備え、これからも自分を磨き続けなくてはと感じる今日この頃であった。