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「手と寄り添う」

 午前二時半、目覚ましが鳴る。私はホテルのベッドの上でパッと目を開いた。前日の夜九時に横になったものの、緊張のあまりほとんど眠れなかった。今日は長い長い一日になるだろう。入念に身支度を整えてからエプロンをつけ、最後に必要な道具が揃っているか二度確かめる。さあ、これから大事な仕事が始まる。奮起して部屋を出る。

 午前四時。畳の敷かれた広い部屋に、私たち着付け師は控えていた。今日は成人式。今年二十歳を迎える新成人たちがここに百人あまり集まり、ヘアメイクをして振袖を着る。仕切りのない広いところに着付け師が二十名ほど並び、ヘアメイクが終わった新成人たちを一斉に着付けていく。

 一番大切なのは時間。式が始まる時間は決まっている。必ず新成人たちを時間通りに送り出さなければならない。着付け師が最短で着付けて、ぎりぎり時間に間に合うかという人数配分である。遅れは許されない。前日は着付け師仲間とわいわい言いながら夕食をとったが、今日はそれぞれの緊張感があたりに充満し、言葉少なになる。始まってしまえば休みはなく、お昼ごろまで息をつく暇もない。張り詰めた空気の中、じっと出番を待つ。

 私が着付けの仕事を始めたのは一昨年。趣味できものの着付けを習っている関係で年に数回程度、普段の仕事の休みの日に写真スタジオで仕事をさせてもらっている。

 成人式を迎える人たちは、前撮りといって成人式の前に予め写真を撮る。私が今回働く写真スタジオは、スタジオで前撮りをするための振袖を貸し出し、また成人式当日にも着付け込みで同じ振袖を貸し出している。

 まだまだ経験の浅い私だが、着付けとは不思議な仕事だと思う。初めて会う人の肌着姿を見て体を触り、腰や胸に腕を回したりするのだから。体つきを見てどこにタオルや綿を補正に入れたらいいかを瞬時に判断する。補正をしたところをガーゼで体を巻く。きものの腰の部分を持って裾を上げ、体の幅を測り腰紐を結ぶ。手で衿を上から押さえて首のあたりから胸まで添わせて浮かないよう落ち着かせる。胸元に手を入れて下前を内側に折り上げる。直線でできているきものを、曲線の体になじませていく作業だ。

 そうやってすぐそばにいて相手の息づかいや体温を感じながら体に手を当てていると、その人が今何を感じているのかも伝わってくる。〈緊張しているな〉とか〈嬉しそうだな〉、また〈疲れているみたい〉ということも。そんなとき、写真スタジオでは声をかける。「お振袖すてきですね。お嬢さんが選んだのですか」とか、「きものを着るのはじめてですか」と尋ねてみると、初対面でもいろいろ話をしてくれる。短い時間の中だが親しくなって、他人ではないような気持ちになり、それもまた楽しい。

 成人式当日は、こうした会話は少ない。とにかく大勢を時間内に着付けるという真剣勝負に、着付け師たちも言葉より手が優先する。まだ早い時間は、新成人も眠そうで、会場は静かだ。

 午前八時。このくらいの時間になると、会場も活気を帯びてくる。大勢の新成人が集まり、この晴れの日をお祝いするムードが漂う。そんな時間だったように思う、あのお嬢さんを着付けたのは。

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 そのお嬢さんは、最初から活き活きした幸福感に満ち溢れていた。着付けをはじめてまもなく、お嬢さんの方からお話をしてくれた。

「専門学校に行ってるんですけど、きものを着る教科をとっているんです」
「自分できものを着ています」

 しばらくきもののことや、今日着る振袖のことが話題になる。お嬢さんの選んだ振袖は深い青い色の古典柄。その色柄がとても気に入っていること、振袖が着られてとても嬉しいことなど、周りで話をしている人がいない中、お嬢さんは全身で喜びを振りまいていた。私も、
「ほんとうにきれいな色ですね」
と応じると、お嬢さんはこう返してくれた。

「まさか振袖が着られるとは思っていなかったんです。うちは母子家庭だから」

 私ははっとした。この幸せそうな雰囲気にはもっと深い理由があったのだ。お嬢さんのこの日を迎えた感動が強く伝わってきた。振袖を肩にかけ、よくよく全体を見てみる。

〈本当にすてきな振袖だ。こんな振袖、レンタルにあったかしら〉普段はレンタルの振袖をじっくり見て何かを感じることもないのだが、私は初めて心の底からそう思った。

「母が振袖を用意してくれたんです」
「本当に振袖が着られるとは思ってなかったから、嬉しくて」

 私は振袖の上前を測ってから下前を合わせた。よくあることだが、レンタルのきものはその人に合わせて誂えたものではないので、サイズが大きかったり小さかったりする。だが、きものはある程度のサイズの幅に対応できる。いつもなら、下前がもうちょっとほしいな、と頭をかすめるだけだが、このときは、下前が十分でないことが悔しく思えてきた。

 お嬢さんのお母様が用意してくれた振袖。もう少し幅が広くてもいいではないか! と。それでも、振袖を触る手からお母様の精一杯なお気持ちが直に伝わってきて、私は涙で目を曇らせながら、必死に振袖を体に合わせた。しばらくしてお嬢さんが言った。

「母が靴を持っていてくれるんです」

 草履を履き慣れない新成人の中には、会場まで履きやすい靴で移動し、会場に入る前に草履に履き替える人もいるのだそう。その履き替えたあとの靴を持っていてくれるという。

「自分にはこれくらいしかできないからって、母が言うんです」
「付き添って靴を持っていてあげることしかできないからって」

 「これぐらいしかできない」という言葉は私にも聞き覚えがあった。私は中学生のときに父を亡くし、それからは母子家庭だった。体の弱い母は、私が小さかった頃は寝込みがちで、家のことができなかったり、学校の行事に出られないことも多く、私は毎日ご飯をつくってくれたり、運動会に来てくれる他のお母さんを羨ましく思っていた。その後、体力が徐々に戻ってきたものの、父が亡くなって数年は、そのショックでますます家にこもりがちになっていた母。そんな母が「お母さんにはこれぐらいしかできない」と口癖のように言っていたのを思い出したのである。

「お母さんには、話を聞いてあげることしかできない」と。

 二〇年あまり前の私の成人式。その頃は、母への感謝などなかった。わがままで、やりたいと思ったことは何でもできる環境の中、それを誰かのおかげだと考えたこともなかった。それどころか、母のことでどれだけ寂しい思いをしたことかと自分を悲劇のヒロインにして、不幸な子ども時代だったと嘆くほど。このお嬢さんとは大違いだった。

 しかし年を重ねるにつれ、母に話を聞いてもらえることがどれだけ自分の支えになってきたかを感じるようになった。悩んだとき、励まし応援してくれるその言葉は何より力になった。私の母だけかもしれない、他愛もない話でも真剣に耳を傾けてくれるのは。時には話している私より真剣に内容に向き合い、またどんなことでも一生懸命に相槌を打ってくれる。一人暮らしになって悩みを相談すれば、電話で何時間も付き合ってくれ、どんなときも味方でいてくれる。それがどれだけ自分を元気づけてくれたことか、お嬢さんの言葉で気付かされたのだ。
 

 「これぐらいしかできない」とは、精一杯の思いやりと、献身の意味が込められている。もう他に何もいらないくらいの深い愛。今さらではあるが、そのことに思い至ったのである。


 お嬢さんが「これぐらいしかできない」と言ったお母様のことを話したとき、そこに喜びと誇らしさが表れていた。お母様のその言葉は、お嬢さんだけに向けられたもので、その愛情がお嬢さんに自信を与えたのである。私はなぜ気づかなかったのだろう。

「これだけで充分」だったことに。

 帯を締めて仕上げる頃には、この振袖の美しさと、お嬢さんの輝いた晴れ姿に胸が一杯になった。ここにはいないお母様の愛がお嬢さんを包み、神聖なオーラを放っていた。

「前撮りのときよりも痩せて見えます」
 着付けが終わったお嬢さんは嬉しそうに言った。着付ける人によって、その人の着姿も変わる。それは、技術だけでなく感覚といえる。衿の角度、帯の幅を少し変えるだけでも全体の雰囲気は違う。

 私は自分の手できものをその人に着付ける。紐を結び、布を体になじませ、帯をその人の体格にあうように結ぶ。そんな手の動きは、きものを着る人に手を当てながら、その人の心をも感じとることで生まれる自分自身の感覚でもあるのだ。きものを着るということは、衣服を身につけるだけでない、その人の人生や、これまで関わってきた周りの人たちの思いも織り込まれたすべてをまとうこと。それに寄り添い、感覚を研ぎ澄ませていくのが着付け師なのかもしれない。
 

 午前一〇時。この時刻になると、そろそろ成人式に間に合うかの瀬戸際の時刻。着付け会場は焦ったような声が飛び交う。最後は二人、三人がかりで一人を着付ける。見送りをすべて終えると、ほっとした空気が流れ、どっと疲れがやってくる。そして、ゆっくり振り返るのだ。今年もすばらしい出会いがあったこと、たくさんの新成人を送り出せたことを。

 新成人はこの日をそれぞれの思いで迎えている。そんな場に立ち会えることの喜びと、また同時に責任を感じながら、来年も私にできることを精一杯やろうと心に誓った。

今年成人の日を迎えられた方々、おめでとうございます!



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