#237 伊能忠敬のすごすぎるエピソード10選
江戸時代に極めて正確な日本地図をつくったことで知られる伊能忠敬。
それだけでも十分にすごすぎるのだが、その生涯をたどると伊能忠敬がいかにすごい人物だったのかがよくわかる。
①10代で才能が垣間見える
忠敬は、1745年、現在の千葉県九十九里町に小関家の末子として生まれた。幼名は三治郎。
和算や医術を学んだと言われる忠敬の片鱗は、10代の頃には見え隠れしていた。
②傾きかけた商家を10年で立て直す
17歳で酒造業や金融業などを営む伊能家の婿養子になり、伊能家十代目当主になる。しかし、伊能家の家業は衰えており、いつ廃業してもおかしくないような状態だったという。
忠敬は地域密着型の経営を徹底し、他業種にも手を広げるなど多角的な経営を行い、10年で経営を立て直した。
③家財をなげうって人々を救う!
1783年、忠敬が38歳の時、日本は天明の大飢饉にみまわれる。
浅間山の噴火や前年から続く悪天候の影響もあり、江戸時代最大の飢饉が起きる。全国で90万人以上が餓死したとも言われている。
そんな中、忠敬は私財をなげうって地域住民に米や金銭を分け与え、忠敬の住む村からは一人の餓死者も出さなかったという。
④50歳で人生リスタート!
商売で大成功をした忠敬だったが、49歳で家業を長男に譲って隠居。
50歳で幼いころから興味を持っていた天文学を学ぶため江戸へ。
当時、天文学の第一人者だった高橋至時(よしとき)に弟子入りする。
至時は当時31歳。20歳近く年下の師匠のもとで5年もの間天文学を学んだ。
⑤「〇〇の大きさが知りたい!」
天文学を学ぶうちに、忠敬は地球の正確な大きさを知る必要性を感じた。
天文学者にとって正確な地球の大きさを知ることは大きな課題だったのだ。
当時は地球は丸いということは分かっていたが、地球の正確な大きさは分かっておらず、子午線(経線)1度の長さも諸説あった。
忠敬は、「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と考えた。
その方法で地球の大きさを計算するためには、なるべく離れた2地点の距離を測定する必要があった。そこで忠敬が目をつけたのは蝦夷地である。
⑥地図製作は蝦夷地へ行くための口実だった?
江戸時代の地域間の移動が自由にできなかった。
ましてや江戸時代の蝦夷地はアイヌの人々が暮らす未開の地。
松前藩が交易を行っていたものの、一般人がおいそれと行ける場所ではなかった。
そこで忠敬が思いついたのは、「蝦夷地の地図を制作する」というものだった。異国船が頻繁に日本沿岸に現れる中、ロシアの脅威を感じていた幕府にとって、蝦夷地の地理を正確に把握することは大きなメリットがあった。
忠敬にとって地図づくりは、地球の大きさを知るために蝦夷地の測量を行うための口実だったのだ。幕府の許可を得た忠敬は、55歳で蝦夷地測量をスタートした。
⑦超絶地道すぎる測量方法
忠敬はの測量方法は、2点間の距離を測り、方位磁針を用いて曲がり角の角度を測定する。これを繰り返して記録していき、一定の縮尺で紙に書いていくことで地図をつくっていく。百聞は一見に如かず。「歴史探偵」の動画を見るとその地道さがよくわかる。
また、2点間の距離の測量には自分の歩数を用いていた。忠敬は歩幅が正確に70㎝になるように訓練していたという嘘のようなエピソードもある。
蝦夷地の測量を終えて制作した地図を幕府に提出した忠敬に対し、師匠である高橋至時は「このように測れと指図したが、これほどきちんとやれるとは思わなかった」と感嘆したという。
⑧調べた地球の大きさは?
忠敬が蝦夷地の測量を行う過程で導き出した緯度1度の距離は「28里2分」。およそ「110.7km」である。
現代の技術で測量した緯度1度は「111km」なので、誤差はわずか0.3%だった。忠敬の制作した地図を見れば分かることだが、GPSをはじめとしたデジタル機器やインターネットのない時代に、全国を歩いて測量したことを考えれば驚くべき正確さである。
⑨伊能忠敬が歩いた距離は?
忠敬の仕事の緻密さに驚いた幕府は、東日本の測量を忠敬に依頼。
幕府からの期待に応える形で、忠敬の測量範囲はどんどん大きくなっていった。最終的に忠敬は17年にわたって10度の測量を行い、歩いた総距離は3.5万㎞とも地球1周に相当する4万㎞とも言われている。
測量を終えた忠敬は71歳になっていた。球体の地球を測量したデータだったため、それを平面に写す際の誤差の修正作業を行っていた段階で、忠敬の体調が悪化。1818年、日本地図の完成を目前にして、忠敬は弟子に見守られこの世を去る。
忠敬の死から3年後の1821年、弟子たちの手によって忠敬の制作していた日本地図が完成。幕府要人に見守られる中、江戸城の大広間にて「大日本沿海輿地全図」が初めて披露された。
⑩イギリス人もびっくりの正確さ
忠敬の死後もすごすぎるエピソードは続く。
忠敬の死から数十年後、日本は開国をして欧米諸国が日本進出を試みようとしていた時代。
イギリス人は無理やり日本の測量を行おうとしていた。
各地の大名とイギリス人とのもめごとを懸念した幕府の役人が、忠敬がつくった地図をイギリス人に見せた。
イギリス人は地図の正確さに驚嘆し、「今さら測量する必要がない」として測量を中止、忠敬の地図をもとに海図を作成したという。
・・・忠敬の生涯を振り返ると、忠敬はどんなことにも全力で、人々のために生きた人だったことが分かる。
伊能忠敬は間違いなく尊敬できる歴史上の人物の1人である。
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