#255 佐賀を発展させたクリークとは?
筑紫平野には網の目のようにクリークとよばれる水路が張り巡らされている。不思議なことに、「クリーク」という単語は日本地理では筑紫平野でしか登場しない。
用水路は日本全国に張り巡らされているのだが、筑紫平野のクリークは用水路と何がちがうのか。
まず、筑紫平野の成り立ちをみてみよう。
筑紫平野の特徴は、有明海から30~40㎞ほど離れた地点でも、海抜5~6mほどの平坦な土地が続いている点だ。
広大な平野は、有明海の生む干満差によって形成された。有明海は、日本で最も干満差の大きい海で、干潮時と満潮時の差は何と最大6m以上になるという。
実は、約7000万年前の海岸線は、おおよそ上の地図の青い部分の縁くらいまであった。そこから、海水面が下がったり、潮が満ちる際に砂や泥が堆積したりして、広大な干潟が広がっていった。さらに、農地を広げるために人工的な干拓が古代からすすめられ、現在の筑紫平野をつくっていった。
標高が低い湿地帯である筑紫平野では、とくに高潮になると雨が降っても雨水が排水されず、しばしば洪水にみまわれる。
網の目のように張り巡らされたクリークは、洪水を防ぐために一時貯水をする役割もある。
複雑に入り組んだ水路は、戦国時代は敵の侵入を防ぐ堀の役割も果たした。
城として利用されていたクリーク周辺の集落は現在でも残っており、迷路のような水路を見ることができる。
現在でも筑紫平野ではクリークを利用した農業がさかんだ。
米と小麦などをつくる二毛作が行われており、小麦・アスパラガス・れんこんなどの農産物の生産量は日本有数である。
水路が張り巡らされているのは農村だけではない。
かつて佐賀城の城下町だった佐賀市街にも水路が張り巡らされている。
古地図をみると、道路のように水路が張り巡らされていたことがよくわかる。
佐賀城は有明海から8~9㎞ほど離れていたが、水路は海とつながっており、潮の満ち引きを利用した舟運が発達した。
また、都市にとって大雨時の排水は不可欠で、網の目状の水路は現在も佐賀市街を洪水から守っている。
いたるところに張り巡らされたクリークは、佐賀県内だけでも総延長2000㎞以上と言われている。
現地に暮らす人々にとって、クリークは単なる農業用の用水路ではなく、貯水、防災、観光といったさまざまな役割を担っている。また、水路の規模や形状も特徴的な網の目状をしている。こうした特徴から、他の地域の用水路とは差別化され、「クリーク」という用語でよばれているのである。
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