#60 大河の主人公になれる?中大兄皇子の生涯

初見では読み方がわからない歴史上の人物第1位。645年に蘇我氏を倒し、後の天智天皇となった教科書でおなじみの人物である。

当時はまだ天皇の呼称はなく、「天智」という呼び方も後世の人々がつけた呼称である。

天智という名は中国の殷の最後の王、紂王に由来すると言われている。紂王と言えば、「酒池肉林」のエピソードで知られる所謂暴君で、反乱軍に大敗した際に焼身自殺をした。その際に身にまとっていたとされるのが天智玉という宝石から名前をとって天智天皇と命名されたと言われている。

つまり、後世の人々から、暗に「暴君」という評価が下されているのである。

そんな中大兄皇子の生涯をたどってみよう。

【626年】
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の第2皇子として生まれる。血筋は完璧なサラブレッドである。

葛城(かつらぎ)という諱(いみな)だが、一般的には「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」とよばれている。大兄とは皇位継承資格を示す称号で、「中」は二番目という意味がある。つまり、中大兄皇子とは、二番目の皇位継承者という意味の呼称である。

【645年】19歳
政治の実権を握ろうとしていた蘇我入鹿を母・皇極天皇の御前で中臣鎌足らとともに殺害。翌日、蘇我入鹿の父、蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害。
皇極天皇は退位して弟の孝徳天皇に皇位を譲り、中大兄皇子は皇太子として政治の中心人物となる。

同年、蘇我氏を後ろ盾としていた兄の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を謀反の疑いがあるとして殺害したと言われている。古人大兄皇子こそ第一の皇位継承者だった。

しかし、古人大兄皇子は皇極天皇退位の際に即位をすすめられたが断って出家しており、吉野で隠居していた。それでも謀反の密告をされて攻め滅ぼされたという。実際に謀反の意思があったかどうかは定かではない。

【649年】23歳
右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てているという密告を受け、屋敷を攻めて殺害。密告したのは同じく蘇我氏で、蘇我氏の内部抗争という見方もできる。

蘇我倉山田石川麻呂は乙巳の変で蘇我入鹿暗殺に協力した人物であり、娘の遠智娘(おちのいらつめ)は中大兄皇子の妻である。つまり、義理の父にあたる人物を殺害したことになる。遠智娘はそのことを気に病んで亡くなったと言われているが、死因や没年は定かではない。

【653年】27歳
孝徳天皇は大化の改新後に難波(現在の大阪城付近)を都としていたが、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すように提言。孝徳天皇がこれを拒否したため、中大兄皇子は母の皇極天皇(退位した天皇)ら一族や官僚をひきつれて飛鳥へ移ってしまう。
そのことで気を落とした孝徳天皇は失意のうちに病に臥せり、翌654年に崩御した。

【658年】31歳
孝徳天皇が崩御した後、飛鳥を都として皇極天皇が斉明天皇として再び天皇となった。なお、皇極天皇(斉明天皇)は2度天皇に即位した(このことを重祚=ちょうそと言う)はじめての人物である。

この時、孝徳天皇の皇子である有間皇子(ありまのみこ)は、中大兄皇子とともに有力な皇位継承者となっていた。しかし、身に危険を感じ、心の病と称して現在の白浜温泉(和歌山県)で療養生活を送っていた。

そんな中、有馬皇子のもとを訪れた蘇我赤兄(あかえ)は、斉明天皇と中大兄皇子の政治を批判し、もしその気なら有間皇子の味方になると語る。それに対し有間皇子は反乱を起こすと言ってしまった。

蘇我赤兄は実は中大兄皇子の息のかかった人物だったと言われており、有間皇子が語ったことを中大兄皇子へ密告。有間皇子は処刑されてしまった。

【663年】36歳
660年、日本と友好関係にあった朝鮮半島の国、百済が唐・新羅によって滅ぼされてしまう。援軍を求められた日本は朝鮮半島への出兵を決定。斉明天皇自ら兵を率いて九州へ向かう。

この時、中大兄皇子や弟の大海人皇子も同行している。しかし、661年、出兵をすることなく、筑紫(福岡県)で斉明天皇は崩御してしまう。
その後、中大兄皇子は皇位にはつかず、朝鮮半島への出兵を継続。

その結果、白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に大敗し、その後日本では大宰府や水城・山城の建造など、大陸からの防御を固める政策を行っていくことになる。

【668年】41歳
都を大津宮(滋賀県)へ遷都して天皇に即位。乙巳の変から実に23年の月日が経過している。その直後、弟の大海人皇子を皇太弟として皇位継承者とする。

翌年の669年、盟友中臣鎌足が死去。この前日に「藤原」の姓を与え、後の貴族の世の中心となる藤原氏がはじまったと言われている。

【670年】43歳
日本最古の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成する。現存していないので詳細は分かっていないが、戸籍を作成することで税の徴収や徴兵を容易にして、国としての基礎を固めることにつながったとされる。

同年、息子の大友皇子を日本初の太政大臣に任命する。このことは実質大友皇子を皇位継承者と指名することとなり、大海人皇子と大友皇子の2人が皇位継承者となる事態となってしまう。

【671年】45歳
大海人皇子にとって運命の年。病に倒れた天智天皇は大海人皇子を呼び、「次の天皇は任せる」と言った。しかしこれは地獄の質問であり、もし大海人皇子がYesと言えば謀反の罪を着せられて処刑されていたのではないかと言われている。この質問に対し、大海人皇子はそんなつもりはないので出家すると答えた。

その後、天智天皇は崩御し、大友皇子が弘文天皇として即位する。

【672年】
弘文天皇は大海人皇子に対し警戒を強める中、自分への挙兵が時間の問題だと悟った大海人皇子は先手を打って挙兵。古代最大の内戦である壬申の乱である。

激戦の末、弘文天皇は首を括って自害。大海人皇子が天武天皇として即位した。天武天皇の年齢については諸説あるが、この時概ね40代だったと言われている。

鎌倉殿の北条義時も真っ青なくらいに政敵を排除していった天智天皇。天皇家なのであり得ないが、大河ドラマになってもおかしくないくらいの人生の濃さである。

その他にも、天武天皇の妻である額田王を無理やり自分の妻としたり、天智天皇の娘(後の持統天皇)が天武天皇の妻だったりと、家系図でまとめてみたら一層面白そうだ。

【目次】


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