第14話 『「朝日」に貶められた現代史』への反論

 田辺敏雄氏は、義父である川上大尉が不在で、平頂山事件の虐殺を指揮していなかったことを証明するために調査をし、『追跡 平頂山事件』を書いた。その調査過程で、本多勝一著『中国の旅』の記述が、中国共産党の主張(プロパガンダ)そのままであり、例えば、炭坑の工夫が何万人と殺され棄てられた「万人坑」が中国の作り話であることを『「朝日」に貶められた現代史』で立証した。確かに、その指摘については田辺氏が正しいと知多郎も判断する。

 下記の田辺氏の批判が分かりやすい。


朝日記事「万人坑」はなかったという指摘に本多勝一氏はこう返答した…「中国の主張を代弁しただけ」
https://www.sankei.com/premium/news/160504/prm1605040031-n1.html

 本多勝一氏の反論「中国の主張を代弁しただけ」については、一面的には無責任ともとれるが、別の一面としては価値がある。このことについては、いずれ

 村山談話は朝日新聞の「おかげ」

と題して、別の日に解説することとする。

 なお、タイトルの田辺氏の本について、P213で、
 太田少佐「罪行総括書」と梶谷日記
と題し、中帰連の太田少佐が嘘をついていると分析しているが、それは、田辺氏の勘違いであろう。それを指摘したコメントがアマゾンに寄せられているので紹介する。

(引用開始)
太田寿男「戦犯供述書」の「南京・下関での15万体死体処理」と、梶谷軍曹「従軍日記」の死体処理は、別々の死体処理である。太田と梶谷は一緒ではない!
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2VWXH4SURFHBB/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4915237362

2016年8月6日に日本でレビュー済み

典型的な間違いを以下に示す。
太田寿男「戦犯供述書」の扱いに対して、完全に間違っている。太田供述書は事実である。

『太田寿男少佐「供述書」―「南京大虐殺」の証拠と大報道―』で検索し、田辺敏雄氏の見解を参照の上、理解して頂きたい。
梶谷日記では、(太田供述との関連でもっとも重要な記述)
12月25日の分で、
 『朝来寒気殊に甚しきも快晴なり。正午頃「常熟より」太田少佐外来る。
 津倉、泉原来り久し振りにて歓談す。・・』
太田は、南京陥落時、本部である「常熟」では勤務しておらず、出張所の「許浦鎮」で、部下3人で物流業務をしていた。
そこで移動命令を14日に受け、翌日の船で南京・下関に移動し、15日の夕刻に到着している。
物流の桟橋の死体処理が、18日に終了したので、再び、南京の本部から、新しい出張所として「常熟」に転勤になったと推測する。

もしも、太田が初めて南京に来たのならば、勤務地・出張所の「許浦鎮より」となっていなければならない。

太田が、25日に「常熟より」本部に戻って来たのは、長江の上流の「蕪湖の支部長」に任命されるためであり、即日、部下を13人引き連れて移動している。
梶谷日記でも、25日に「常熟より」戻った戦友が、そのまま蕪湖に移動することを記述している。
この12月25日の日付が正確に、太田と梶谷が一致している。
太田寿男は、シベリア抑留で5年間も死ぬほどの強制労働を経て、その後撫順戦犯管理所で、資料もなく記憶だけで記述し、8年以上も前の日にちを正確に覚えている。だから、南京・下関に、船で、15日夕方に着いたのも、正しい日にちである。
太田の死体処理は、400名の兵士を使い、平均300mくらい運び、長江=揚子江に投げ捨てる作業だから、物流作業と全く同じであり、トラックや一輪車を使い運んだり、鍵棒でひっかけて引きずって河に流した。一旦、作業手順が決まれば、流れ作業であり、太田は、式典に抜け出すことは可能である。まずは、食料の流通の確保が最優先であり、桟橋の膨大な死体は、至急、除去しなければならなかった。
普通の兵士は戦闘が終わったので、役目を終え、式典に参加ができるが、物流の確保が任務急務の太田が式典に参加する方がおかしい。
田辺敏雄氏は、実態が把握できなくて、間違った見解にある。これが代表である。
(引用終了)

 そもそも、田辺氏は、同書P216で、「日記、証言から遺体処理が12月26日にはじまったことは明白であろう」としているが、なぜ、明白というのだろう?理解に苦しむ。南京攻略戦は12月4日~13日まで行われた。
 「梶谷日記」でも、16日、17日にそれぞれ2000名の捕虜が虐殺される場面が記述されている。これは、清水潔著『「南京事件」を調査せよ』にて、詳しい虐殺の様子が明らかにされている。
 それが、なぜ、26日に遺体の処理を開始したというのだろう?川に流すために、その場所を選んだのである。遺体処理は16日から始まったと考えるのが妥当だ。
 田辺氏は、義父の汚名を晴らしたいために、調査を始めた門外漢であるので、コメントのような反論も受ける程度の人だ。彼の主張をそのまま鵜呑みにして、中帰連の証言者を洗脳よばわりするのは間違っている。 #ネトウヨの生みの親 #小林よしのり 氏がその典型だ。田辺氏が洗脳認定した根拠は全く希薄である。単なる脱脳である。鬼から人間に帰っただけの話である。『鬼滅の刃』の鬼と同じだと説明すれば、わかる人(特に若者)にはわかるだろう。

 なお、後述するが中帰連のメンバーの中に、自分が所属していなかった戦場での体験を話したりした方がいたようだ。それには、留意する必要があるが、それをもって1000人以上の戦犯の告白が嘘だというのは、飛躍し過ぎで、また別の話である。

 両論併記として、同じくアマゾンの金子安次著『金子さんの戦争』のコメント欄に、真実ではない証言を行ったと指摘されている人物のリストを紹介しておく。(要検証)
 
(知多郎注:下記のコメントの金子氏自身に対する前半部分の批判は、ひょっとすると別の証言者と混同しているのでは?また前述の太田壽男氏について、田辺氏の主張を鵜呑みにして捏造と断定している時点で、能力が知れます。単なるネトウヨのコメントですので、鵜呑みにはしないように願います。)

(引用開始)
日本戦犯の教育改造は日中戦争の続きである!改造の成功は革命の歴史的任務である!
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4898151566/ref=acr_search_hist_1?ie=UTF8&filterByStar=one_star&reviewerType=all_reviews#reviews-filter-bar

この方、大日本帝国軍への入隊が1940年なのですが、1937年12月に起きたとされる南京大虐殺に言及し、その蛮行などを証言されたのはなぜだったのでしょうか? ましてや59師団44大隊に属したそうですが、59師団44大隊の編成は1942年の4月1日です。まだ出来てもいない部隊に属し、1937年の南京での略奪行為(家屋破壊など)を行っていたという。このほかにも青島にあった部隊に所属していたはずが、満州にあった731部隊の作戦にも関わったことなど、その後それらの矛盾がどのように解釈されたのか知りたいです。
この方の他にも、撫順戦犯管理所で6年から11年に渡って共産党教育を受けたあとに釈放され、帰還された元日本兵のなかには、日本軍の蛮行の数々をメディアに話し続けた方々がいますが、あとにそれが捏造や誇張であったことが分かっています。以下はそのほんの数例です。

東史郎…有名な元日本兵の捏造者。原本の存在しない創作日記を出版するも、元上官から名誉毀損で提訴される。2000年1月に最高裁で敗訴。中国じゃ未だに真実扱い。

中山重夫…戦車段列から大量の処刑を見たと吹聴していたが、場所や時間が二転三転し、最後に嘘がばれてしまった。

富永博道…当時は学生であったにもかかわらず、南京戦に参加して虐殺したと証言。経歴照会であっさりと嘘が判明。

舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記を捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し、勇戦するという仮想戦記な内容で、あっさり嘘を認めて終わった。

曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やはり経歴を詳細に調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、あの秦教授も騙されてしまった。

田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状

太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書くが、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事が判明。撫順収容所内での洗脳後に書いた捏造日記だった

富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していたことが判明し、捏造を認める。

上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」で、しかもそんな命令が出たという史料は一切無く、同じ隊の戦友に捏造を告白。

こうしたもと下級の日本兵がなぜ捏造の証言をするのか、同じ戦友はどう思っているのか、そして中国共産党が行なった教育とはなど、「天皇の軍隊」を改造せよ―毛沢東の隠された息子たちや、検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直すを読まれることをオススメします。

中国共産党による「認罪」と言われた洗脳政策が行なわれた管理所の職員たちは、「日本戦犯の教育改造は日中戦争の続きである!改造の成功は革命の歴史的任務である!」を日々の合い言葉に、元日本兵たちの再教育と思想改造を徹底して6年以上に渡って行い、それを完成させたと言われています。
(引用終了)

 ↑参考にさせてもらって、別の機会に検証する。

 さらに、金子安次氏への批判は田沼敏雄氏のサイトに詳しく解説されているので、それも紹介しておく。
 ジャパン・タイムズが報じた 金 子 安 次 証 言
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/others/japan-times-kaneko.html

 2000年に東京で開かれた戦時下の性暴力を裁いた民衆法廷『女性国際戦犯法廷』
は歴史修正主義者にとっては由々しき事態であり、特に天皇の戦争責任が糾弾されたので大問題に発展した。
 この法廷で加害の証言をしたのがこの金子安次氏であり、当時の安倍晋三官房長官(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」事務局長といった方が適当か)らがNHKに乗り込んで問題部分をカットさせたという、とても有名な「NHK番組改編事件」に発展することになった。
 金子氏の証言が全て真実だという保証はない。一方で、このような蛮行が日本軍によって行われなかったなどというのも全くの嘘である。同様の証言は山のようにある。あくまで民衆法廷であるので、戦犯を日本軍とした場合には、単に金子氏が代弁したともいえる。この法廷の主旨については、下記に簡単に説明されており、有意義な民衆法廷だと知多郎は思う。

 2000 年 「女性国際戦犯法廷」 という経験
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/8/10/8_10_90/_pdf


 日本独自で戦犯が裁かれなかったことをはじめとして、日本政府の対応が不十分で、法廷の判決がおおむね正しく、目くじらを立てるほどのものではない。
(一点だけ、知多郎は天皇は無罪だと思う。次回、改めて解説します。
惜しむらくは、天皇を被告に加えた結果、歴史修正主義者を逆に刺激し、戦時下の性暴力の糾弾がぶれてしまったのは残念である。昭和天皇は、レイプもしていないし、まさか最前線でそのような蛮行が行われていたことなど、知らなかったはずだ。知らないのに、対処できるはずもない。)

 さて、先のコメント欄に名前を上げられた中帰連の方々11名に偽証があったと仮定しても、それをもって、その他1000人以上の供述書が全て嘘ということには全くならない。正直に記述した戦犯がほとんどであろう。

 日本の歴史修正主義に対して警鐘を鳴らすために、中国共産党が戦犯の供述書をネットに公開している。
 愚かな歴史修正主義者のために、怒った中国が日本に核ミサイルを打ち込む可能性は0ではない。

 歴史の警鐘を鳴らす 中国が日本人戦犯の供述書を公開
 http://japanese.china.org.cn/politics/node_7211321.htm

 なお、元戦犯の内、帰国直後に富永正三氏のように、積極的に加害の証言を続けた人物は、実は少数派のようだ。妻や子供に知られてはまずい話なので、沈黙をした者の方が多かったのも事実である。その②「加害の証言は難しい」で解説済み。
 金子安次氏も90年代まで語らなかったようだ。
 なお、もし強姦後の殺害などの蛮行を行った元兵士が、収容所されずに帰国できた場合、その罪状を自ら正直に話すだろうか。妻や子供に話すだろうか?否である。墓場の中までもっていくだろう。(それを証言しないのは卑怯であると、戦争を知らない私達が糾弾することも卑怯である。)
 加害の歴史を隠蔽しようと嘘の証言をする人もいただろう。沈黙している人もいるだろう。戦友会(郷士連隊)の名誉に関わることなので、緘口令がしかれるケースもあろう。緘口令もしくは談合が行われていると考える方が妥当である。
 しかし、田辺敏雄氏や歴史修正主義者は、そのような隠蔽が行われている可能性を全く考慮せず、戦友会の多数決によって、作り話だとしている。


 戦友会が蛮行を否定するケースは二つある。
①蛮行をやっていないケース。
②蛮行をやったが、やっていないと嘘をいっているケース。
 戦友会は郷士連隊なので、加害の事実があったとしても、地元で白い目で見られるようになるので、やってないと主張するのも当然であり、自分達で緘口令をひくこともあるのだ。(後日、改めて解説します。)
 ①と②を見極めるのは、極めて難しい。軍や政府が資料を全て燃やしたからだ。

 いずれにしても、南京事件で捕虜や市民に対する大量虐殺が行われたのは、否定しようがない事実である。偕行社の調査がそれを裏付けている。

 なお、保坂正康著『戦争とこの国の150年』に、蛮行を行う部隊と行わない部隊の解説がされている。
(引用開始)
 日本の陸軍は郷士連隊ですから、ととえば南京事件のときに、どの部隊が行っているかということで出身地域がわかるわけですね。
 南京事件でもいわゆる虐殺をやっていない部隊というのが確かにあるし、南京の街には門が五つぐらいあって、この門ではそういった行為はなかったとか、あの門ではあったとかいろいろわかれています。そうじてそういうことをしなかった部隊というのを調べると、やはり一つの特徴があって、東北の純農村、東北の兵士はあまりやらなかったという傾向が見えてきます。それから都市の兵隊、麻布とか大阪とももあまりやらないんですね。あまり大きな声ではいえませんが、総じて戦地で略奪や婦女暴行などの行為に走る兵士が多いのは、大都市の周辺の、都市化と農村共同体が半々ぐらいの地域だったりします。それは日本の都市の発展史における住民意識と農村共同体が崩壊していくときのそれと、何らかの関係があるのではないかと思うんですよ。
 こういう研究は中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』などがあります。東北の兵隊はあまりやらなかったというのがよくわかるのは、東北の農村共同体がある意味でがんじがらめに兵士を縛っていますから、そこで上官からお前も国に帰れば姉さんや妹がいるだろうと、おっ母さんは朝から働いて畑を作っているだろうと、そう言われただけで絶対に悪さをしないんですね。
 そういうことを調べていくと、結局は上官の資質とか、部隊編成の問題に行き着きます。20歳前後の新兵というのは、総じてあまりムチャをしないんですね。ところが、戦況が悪化してくると再召集兵が戦地に送られてくる。この再召集兵の人たちは30代40代の古参兵で、この年代の兵士の方が戦地で悪さをするケースが多いのです。もちろん、個々の人間の道徳的な問題であるのは間違いありません、同時に、言えるのは、こういうことはしてはいけないという戦場のモラルを教えないまま、現地に連れていって好き勝手やらせた日本軍という組織の問題なんだと思うのです。
(引用終了)

 日本に都合のよいの元兵士(こちらが嘘をついている可能性もある)の証言だけで、ほぼ正直者の中帰連の方々の証言を否定するのは、問題点も多いことを改めて指摘しておく。