2011/1/29 器に触れる

今日は陶芸の展覧会のレビューを。



①「歴代 沈壽官展」@日本橋三越

先週の日曜美術館(NHK教育)を見て足を運んだが同じ考えの年寄りが多く、昼だというのにぎゅうぎゅう。
感想は…まさに芸術、百聞は一見に如かずの一言に尽きる。
存在するだけで心を持っていかれるような、家に持って帰ってずっと見ていたいくらい。
特に12代の作品は秀逸。
手先が器用だったのだろうが、透かし模様、獅子の牙や雀の翼、羽毛、象の歯などが事細かに表現されている。
絵画でなくただの焼き物なのだから普通は省略してしまうだろうに。
その上豪快さも併せ持つところがすごい。
たとえば獅子の香炉。
1mくらいの大きさで蓋に獅子が乗っかっているが、その獅子に威嚇されているような気分になる。
また、小さなつぼに描かれた龍は正面を向いているだけなのに壷に巻き付いて今にも襲ってきそうな迫力がある。
もちろん、15代の作品も素晴らしいけれども、時の洗礼を受けて残ってきたものが持つ深さのようなものがまだ足りないと感じる。



②「追悼 三代徳田八十吉展」@横浜そごう美術館

新聞の広告の壷に魅せられ中華街にかこつけて横浜まで足を伸ばしてしまった。
恥ずかしい話、有田焼と伊万里焼、九谷焼の区別もろくにつかない。
ただ、九谷焼って(示されたものは)暗い色合い(イメージ)ばかりであまり好きでなかった。
今回見て、多分緑色の発色が好みじゃなかったんだと思う。
ただ、三代八十吉は初代と同じく釉薬を極めた人。
従来のような図柄ではなく色のグラデーションをもとに作品を表現していて、その色彩にやられた。
特に青。コバルトブルーの深い色に息を呑む。
そして黄色。
広告の壷は黄色がど真ん中にあるから、より一層青が際立つんだろう。
その二色のおかげで緑も様々な輝きを持つ。
個人的に気に入ったのは「あけぼの」「黎明」「恒河」。
いずれも深い青色が黄色に向かってどんどん色調が変わっていくがそのグラデーションがいい。
後は、作品に生前の八十吉が説明をつけているものがあって、それも含蓄があって思わずメモしてしまった。
例えば、初代(三代の祖父)の絵付師からのメッセージ
「九谷焼が嫌いでも家には久谷焼最高の技術があるのだから
それを使って自分なりの九谷焼を作ってみろ。
新しい九谷焼が出来るかもしれない。」
それから、日展に9回落選して悟ったこと
「自分には造形の才能はまるでない。」
二代目(実父)の師匠である富本憲吉の説教
「文様から文様を作るな。写生して、それをデザインにして作品を作り出しなさい。」
など、芸術家でなくとも通じるところがある。




今回数々の作品に触れて思ったのは、
芸術は人の心を救うものでなくてはならない、ということ。
沈壽官展で「家に飾っておきたい」と思ったのは
外で嫌なこととかあった時に、作品を見ることで疲れや悲しみを癒してくれそうだと感じたから。
八十吉展で「あけぼの」「黎明」を見て寒気がして泣きそうになったが、2年くらい前のしんどかった時期に部屋から見た朝焼けと重なったから。
そう考えると芸術家って、高村光太郎の言葉通り
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
なんだろう。
自分だけのオリジナリティを構築するために
自分の中の答えを見つけるべくひたすら己と向き合う。
まるで宗教のよう。

芸術家ほどの切迫感はないにせよ、仕事をする上で考えてしまう。
「私にしか出来ない仕事って、何だろう。」