対話の初心者から見たshabelo
オンライン対話プラットフォーム「shabelo (しゃべろ)」の石井です。
メンバーとしては参画するタイミングで初めて対話に関わった立場から、活動の振り返りを残していきます。
今回の内容は、
- なぜshabeloに参画することになったか
- 活動の中でshabeloや対話への印象がどう変わったか
の2つです。
1. なぜshabeloに参画することになったか
私はエンジニアの立場として、技術協力する形でshabeloへ加入しました。
加入を決断した理由は、大小あれどいくつかの要素が絡み合っています (活動を続けるためのモチベーション維持にもつながっています)。
- 自分の技術者としての市場価値を高める機会
- 「shabeloや対話」の価値に対する納得
- 主業務があることを前提とした活動
- 主業務のフルリモート化によって生まれた余暇
### 自分の技術者としての市場価値を高める機会
私が主業務で行っていた「チームによる既存プロダクト保守・運用」と比較すると、shabeloではプロダクトの (アーキテクチャレベルでの)技術選定から設計・実装・保守運用に至るまで本当の意味で全てを (しかも、さしあたり単独で)行う必要と機会があるので、まずはそうした経験に価値を見出しています。
予算や時間など各種リソースにかかわるコストを (それなりに注意深く)見定めた上での方針決定が必要なので、影響範囲がとても広い役割を担っている……という実感が既にあります。
開発経験の活かしどころとして、価値あるサービスを持続させたいという目的もあります。shabeloメンバー内では、
「shabeloに参画するのはなぜか (自身にどんな目的があって、shabeloにつながるか)」
といった意識も話し合っていて、それぞれ「こういう挑戦をしたい」、「こんな場を世界につくりたい」という目的が共有された中で私も「価値あるサービスを持続させる」ことについて話していました。
この目的がshabeloの維持・発展にもつながることを期待しています。
### 「shabeloや対話」の価値に対する納得
次に、「対話自体の価値」や「対話の場を提供するshabeloの価値」は、私自身の学生時代の経験と結びつけて自分なりに納得しました。記事の下のほうで詳しく振り返りを書きます。
私はこれまで対話の具体的な概念を知らなかったので、納得に至るまでの過程として「対話で何をするのか・何を得るのか」といった情報をもらいつつ、何度かミーティングに参加し続けました。
### 主業務があることを前提とした活動
別の魅力として、
「shabeloメンバー全員が主業務 (shabelo以外の本業)をもっている状態」
という特徴もあります。
すなわち、メンバーにとってshabeloでの活動はいわゆるコミュニティ活動 (あるいはサークル活動?)に近い位置づけで、良くも悪くも「余暇」の利用を前提としています。
スタートアップ企業の立ち上げ時期といえば、私は、
「それを主業務として初期段階で大きく投資し、成果を出すまで己の全身全霊をかけて取り組む」
というイメージが強いですが、これまでのshabeloの活動はそうなっていません。
時間内に結論を出すことは最優先せず、視点を変えながらもメンバーが議論内容を納得するために時間を使い、何らかの結論が出るまでの過程を重視していると思います。
表面的には速度を犠牲にするやり方ですが、私は気に入っています。自分の生活にかかわるような壮大なリスクを背負わなくて済むため、心には余裕が保たれ、常に冷静に活動できていることを実感します。
### 主業務のフルリモート化によって生まれた余暇
ほかにも、主業務の環境変化が私のshabelo加入を後押しする契機となりました。
私はこれまで通勤に片道1時間30分近く要する生活を送っていましたが、当時の激動の中でフルリモート業務 (私の場合は業務の全てを自宅で行えるような状態)へ変化したため、時間的な余裕を見繕いやすくなりました。
通勤による出社・物理的対面を主とする従来の働き方のままだったら、私のshabelo加入は絶望的だったかもしれません😇
2. 活動の中でshabeloや対話への印象がどう変わったか
### 最初の印象
最初は対話という言葉の定義について深く考える機会もない状態でした。
意図的に対話という語が繰り返し強調されるような場面は、かつて視聴した "劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-"くらいしか記憶にありません。
雑談や議論との違いもわかっていなかったので、巷でことさらに「対話しよう」、「対話が重要だ」というワードを見かけても意図が不明で、怪しさと胡散臭さに満ち溢れて感じるほどでした (言葉遊びの域を出なかった、という表現が近いかもしれません)。
shabeloに対する印象も、対話を知らないので世界観もわからないところが多かったと思います。
### 対話を理解するために行ったこと
まずは対話経験の豊富なメンバーから解説を受けました。
対話の種類も様々ある中で、私が聞いたのは「哲学対話」に関する内容です。
対話に関する私の印象変化も、哲学対話の概念によって理解を後押しされた、という要素が強そうです。
次にオンライン対話に参加しました。これが私にとって初の対話体験です (私はもともと雑談などの対人コミュニケーションを避ける傾向が強かったので、これまでは自発的にこういうイベントに参加することもありませんでした)。
体験の中から「対話の流れ」、「参加者それぞれの役割と発言タイミング」、「話題の派生する方向や頻度」などを対話の雰囲気として読み取りつつ、最後は対話を楽しんでイベントを終えました。
最後に、shabeloで目指す世界観や目的について話を聞きました。
対話に関する説明を受けたり実体験したりする合間もshabeloでのミーティングには参加し続けていたので、内容の補足などはその都度メンバーから受け取り、私の質問や感想もその都度メンバーへ伝えていました。
もともと引き受けようと思っていた役割 (技術協力)ですが、このタイミングでは対話やshabeloについての賛同者として改めて引き受けたといえます。
### 理解したこと
対話がどういうものであるか (対話の中で起こること、参加者がすること)を理解できたこともあり、対話というワードに関する怪しさ・胡散臭さは打ち消せていました。
このワードを使う人の意図や文脈によっては怪しさも当然生まれるでしょうが、その人なりの定義があって元々の定義からも離れずに読み取れるものであれば、私は理解できる気がしています。
私の理解をもとに「対話」の詳細を切り出してみると、たとえば今のshabeloが定義する「対話」はこういう要素を含んでいるように見えます。
- 参加者は何らかの共通テーマについて話す
- 話す内容は自分の経験に基づくことが想定されている
- 全員が、喋るだけでなく相手の話を聞くことも重視して、互いに相手を理解しようと試みる
- 問いを深めることがあり、素朴な疑問を投げたり投げられたりして自分の中で問いを連鎖させていくかもしれない
- 自分の知らなかったことに気づく・発見することを楽しむ
- 結論が出るかどうかは主旨ではなく、最終的に謎だけが深まったとしても、参加者はその過程での気づきに価値を見出す (謎だけ深まる結果自体を楽しむことさえある)
また、対話には時折「ファシリテーター」と呼ばれる進行役がいて、参加者全員が良い対話体験を得られるようにはたらきかけている、ということも初耳でした。
### 納得したこと
私が理解した「対話」について、私は自身の学生時代の経験をもとに納得しています。
上で書いたうち、「自分の経験に基づく」や「問いを深める」といった要素は、私が学生の頃に経験した研究活動や学習理論を思い起こさせるものでした。
研究というものは分野の違いはあれど、
「今までわからなかった何かを明らかにする」
という点が共通していると考えています。
私が経験した中での「研究」の印象は、
日々の中で感じた素朴な問いをテーマとして、
既に答えを考えた人がいないか探し、
関連分野でどこまでわかっているか調べ、
得た知識と自分の経験をもとに仮説を立て、
問いに対して仮説が合っているか検証し、
正誤だけでなくその要因についても考察し、新たな問いが生まれる……
その連鎖です。
この活動が、shabeloで話題にする対話の「問いを深める」と良く似ています。
ちなみに、研究者は定期的に集まって自分の研究成果を (できるだけ相手にとってわかりやすいように)発表し、他の研究者の意見を聞く、という活動を行うと思います。
学生が行う研究活動でも、定期的に指導教員の研究室へ集合し、同じようなことを行うと思います。
この活動の中で、
「こういう場合はどうなるのか?」
「自分はこうだけど、そういうケースもあるのか?」
などの問いが投げかけられることがあります。私の知る範囲では、研究者はこうした意見・問い・気づきを得て研究に取り入れることを価値として捉えている気がします。
(実際、研究の途中段階を発表される方が「こういうことをやろうとしているんですが、皆さんの意見も聞きたくて〜」といった前置きをする光景も目にしたことがありますし、私自身もそういう中身で発表した経験があります)
これらもまさに、「問いを投げかけられて深まっていく過程」に相当しそうです。
今後もし私が「対話を知らない人」にshabeloでいう対話を説明する機会があった時、その人が研究活動を経ていて多少なりとも強い関心を持っているのであれば、私はこの類似点を挙げるつもりでいます。
また、「自分の経験に基づく」という要素は、教育関連の専門知識の中で良く似た話を知っています。
「学習はどこで起こるか (どう起こるか)」
という問いに対して、いくつか諸説を経由しつつ、
「その人それぞれが立っている状況の中で学習が起こる *1」
という説があるのですが、これを前提にするなら人々が知識を得る過程や理解のしかたは人それぞれ (場合によっては全く異なっているもの)であって、そういう人が同じものを見聞きしてもどこに目をつけるか (視点、観点)は異なる、と考えることができます。
そして専門家の間では「他の人の観点を取り込むことが学習において理解を深めるために役立つ」ということが知られている気がします *2。
私自身も、知人から経験則的な意見・考え方を聞いて「なるほどそう見るんだ」と思って参考にしたり、逆に私の意見・考え方が相手に「なるほどそう見るんだ」と思われて参考にされたり……という記憶があります。
(別に研究の話に限らず一般的にも、組織で集まってそれぞれの観点でアイデアを出し合うケースが良くあると思いますし、成功パターン・失敗パターンをまとめた書籍や歴史上の兵学などから着想を得るケースも納得できると思います)
こういう話が、shabeloで話題にする対話の「自分の経験に基づく」と非常に深い関連を持っていると感じました。
皆それぞれ異なる経験で人生を歩んでいるわけで、その人が考えること・感じたことはその人の (意識的であれ無意識的であれ持っている)観点から話されるのですから、それを聞いて理解を深めようとすることは、ある意味では相手の観点を取り込もうとする動きに見えます。
*1 ワードとしては状況学習です。教育における構成主義との関わりが深いと思います。
*2 私は中公新書の「人はいかに学ぶか (稲垣佳世子、波多野誼余夫 著)」という書籍でそういう研究の存在を知りました。
色々もっともらしいことを並べて書いてはみましたが、結局のところ私が別の分野で興味関心を持っていた概念と「shabeloでいう対話」の特徴に共通点があったので納得した、で一言にまとめられます。
その価値についても想像できますし、「いつかどこかの誰かが同じように価値を見出して対話ユーザとなるのも自然だろう」と考えることができました。
また、shabeloに対する印象も「たしかに価値のあるサービスを行おうとしている」というものに変わりました。
世界観として私が感じる印象は、「ある程度の余裕を持った人が娯楽の一環として対話を楽しむ、その規模が広がっていく」なのかなと思い始めています。
対話を行うユーザは私も含めて消費者ですが、shabeloは「生活上ついて回る衣食住」とは関連しないサービスですし、フリーマーケット系アプリやECサイトなど「あったら便利」、「これまで現場で行っていたことをWebに置き換え」といった価値とも (主旨としては)少し違う気がします。
今の私の印象が今後どのように拡張されるか (もしくは全く別のものに変化するか)には、私自身も注目しています。
お知らせ:対話のフリーマーケット
そんなshabeloを体験いただけるイベントを12/21に開催しますので、よろしければご参加ください。
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